唇の契約 4



「ごめんなさい」
 神子殿は部屋の隅に正座し、しゅんとしている。

 さきほど電話で「もう部屋の下に来ている」と聞き、窓からその姿を見つけた時は腰が抜けるかと思うほど驚いた。神子殿のご自宅から自分のアパートまで、その途中には明るい商店街もあったが、それ以上に外灯の少ない住宅街や、公園など、女性が一人で歩くには危険な場所の方がよほど多い。その道を一人で歩いてこられたのかと思うと、無事だったことに安心するよりも先に、どうして!という怒りに似た感情が先走り、思わず大声をあげてしまっていた。
 多分、これまでに一度たりとも神子殿に声を荒げたことなどなかったからだろう、神子殿は涙こそ見せなかったものの、震える瞳で私をじっと見つめていた。その瞳を見た瞬間、心臓が飛び上がりそうになった。
「とにかく、ここにいては冷えてしまいます。おあがりください」
 京にいた頃、同じようなことを神子殿に言ったことがあるような気がしたが、きっとその時も緊張していたか、自分を律するのに必死だったか、そのどちらかだったのだろう、あまりよく覚えていない。ただひとつだけ、神子殿が嬉しそうな顔で頷いたことだけは強烈に脳裏に焼き付いている。
 だが、今目の前にいる神子殿の顔は、しんみりとしていて……いつも以上に小さく見えて胸が痛む。
「そんなとこにお座りにならないで、こちらへいらしてください」
「いいの?」
「ええ、座布団もございますし、どうぞこちらへ」
 少し曲がっていた座布団の位置を直し、軽く叩いて整えた。自分一人ならば、冷たかろうと、固い床だろうと、かまうことはなかった。この座布団は神子殿がこの部屋に来るようになってから購入したものだ。
「あかね?」
「私、座布団なんていいよ。いつも言ってるじゃない?」
 神子殿はひょいと立ち上がると、目の前にあった座布団を通り越し、私の隣に座った。そうだ、神子殿はこういうお方だった。買ったはいいものの、この座布団は一向に使われることがなかったことを、うっかり忘れていた。
「ねえ、頼久さん、ほんとごめんね、心配かけて」
「もういいんですよ。あかねはちゃんと無事でしたし、それに……」
「それに?」
 それに……今日の自分はどこかおかしい。
「いえ、私こそあんな大声をあげてしまってすみませんでした。どうかしていたんです今日は」
「そうなの?」
 そうだ、どうかしている。さっき必要以上に怒ってしまったのも、今日一日の神子殿への思いが混じっていないとは言い切れない。
「ええ、お恥ずかしい話ですが、昼間あかねと別れてから今まで、自分ひとりでいることが、とても不自然なことに思えてなりませんでした。これまでも、私はずっと一人でしたし、あかねと出会ってからだって毎日一緒にいるわけでもないというのに、寂しいというのか、それとも何と言っていいのか……どうして今日に限ってこんな風に思ってしまったのか、正直、自分でもよくわからないのです」
「頼久さん!」
「はい?」
「ごめんね、私。頼久さんのためにって思ってたのに、結局そんなふうに思わせちゃって」
 神子殿が私の腕をぎゅっと掴みながら、必死に訴えるかのような声をあげた。まるで小さな叫びのように悲しげな声を。
「ど、どうしたんですか急に」
「だって、明日は頼久さんのお誕生日だから、だからプレゼントの用意がしたくて、ほんとは今日もずっと一緒にいたかったんだけど、でも食べ物だから前日に作ったほうがいいと思って、それで今日は頼久さんちに寄らないで家に帰ったの」
「た、誕生日……」
「でも、何度作っても失敗しちゃって。だからプレゼントの用意ができなかったんだ。それに、頼久さんがそんなふうに思うだなんて想像もしなかったから」
 ああ、そうか。誕生日、だったのか。
 言われてみれば、一月くらい前から、神子殿がよく「もうすぐお誕生日だね」って言ってくださっていた。先週も別れ際に「来週ですね」って言われて、「自分の誕生日など、どうでもいい」と答えてしまい叱られたばかりだった。
 確かに昔は、誕生日などどうでもいいと本心から思っていた。実は初めて神子殿からお祝いをいただいた時も、なにがめでたいのか腑に落ちないでいたのだ。けれど、昨年この世界で初めて二人きりで誕生日を祝ってもらい、そして今年も「もうすぐだね」って気にかけてもらい……口では誕生日なんて、と言いながらも、覚えていてもらうことが、祝ってもらえることが、いつしか当たり前に思うようになってしまったのだ。
「あかね、あなたは少しも謝る必要なんて無いのですよ」
「どうして?だって!」
「いえ、今日の私の心の揺らぎは全て己の慢心から起きたものですから」
 そうだ、いつの間にか私は、神子殿が私にして下さることの何もかもに、心のどこかで甘えていた。今日の誕生日だけのことではない。さきほどの電話だってそうだ、自分からかけたことなどほとんど無いじゃないか。メールにしても神子殿からいただいて初めて返信をする。
 そしてこうして二人で一緒に過ごす時間も、全ては神子殿から与えてもらっているだけで、自ら招いたことが一度でもあっただろうか。部屋に来たい、泊まってゆきたいと言われ、「駄目です」「いけない」と言いつつも、心の奥でそれを一番望んでいたのは、紛れも無い自分自身だったのではないのか?いつから私はこんな傲慢な人間になってしまったのだろう。今日のことだって、不安だの寂しいだのと言葉では何とでも言えるが、その薄皮を一枚ずつ剥いでゆけば、核にあるのは愚かな嫉妬心だ。明日誕生日なのに、祝ってくれるって言ったのにどうして?という苛立ちに振り回されていただけなのだ。

「ですから、あかねが気に病むことはありません。私の思いあがりでした」
 申し訳ございませんでしたと、神子殿に向き合って深く頭を下げた、その瞬間、「待って!」という神子殿の声が部屋に響いた。
「でも、それって」
「どうしましたか?」
「それって頼久さんが……」
 最初の掛け声の威勢は影をひそめ、語尾が消え入るように小さくなってゆく。
「はい?」
「頼久さんが、私の世界に慣れてくれたってことじゃないんですか?私を好きになってくれたってことじゃないんですか?そうやって我慢ばかりしてるより、わがまま言ってくれたり、嫉妬してもらえる方がよっぽど嬉しいです。だって、私たち恋人同士でしょう?私は頼久さんの恋人……なんですよね?」
 途中から神子殿の瞳に涙が滲んだ。その涙がやがて溢れ出し、粒となって、みるみるうちに頬へと伝ってゆく。ひと筋、ふた筋と流れるごとに声が震え、小さくなり、最後の問いかけはまるで祈りの言葉のように部屋に落ちた。その声が苦しくて、悲しくて、そしてたまらなく愛しくて、思わず神子殿の躰を抱き寄せた。
「あかね、あなたは私の恋人です。誰よりも何よりも大切な愛しいお方です。だから……」
 神子殿が欲しい。何度も思った。けれど、与えられるだけではなく自ら求めたいと思ったのは今日が初めてだ。
「だから?」
「だから、今日はあなたを帰すことはできません」
「頼久さん?」
「あ、その、わがままが過ぎるでしょうか?」
 真剣に見詰められると途端に臆病になってしまう。少しいきなり過ぎただろうか?けれど、いつも神子殿が仰っていることと同じことを言っただけだと思うのだが……
「そんなことない!」
 いきなり神子殿が飛び掛ってきて、不意打ちを食らった形で仰向けに倒れこんでしまう。もちろん下にいるほうが自分だった。
「うわっ、あ、あかね!」
「もう、考えこんじゃ駄目!ほら12時になるよ。早くベッド行こう!」
「ま、待ってください」



 翌朝、いつもと同じ時刻に目が覚めた。今日は日曜日で私の誕生日だった。だが、どことなく部屋が暗い感じがする。薄いカーテン越しに微かな光が差し込んではいたが、いつももっと明るいような気がするのだが。
 早く起きすぎてしまったのかと時計を見たが、特にそういうわけでもなかった。ふと隣を見れば、神子殿がすやすやと規則正しい寝息を立てながらまだ眠っていた。その寝顔を見て気付いた。いつもは自分よりも先に神子殿が起き出し、朝食の準備をしてくれていたことを。
 だから、毎週のように一緒に日曜の朝を向かえていても、神子殿の寝顔を見たのはこれが初めてになる。
「はじめて、ですね」
 もちろん返事はない。余程疲れたのだろう。それに、京にいた頃を思えば、格別朝にお強い方ではなかった。それを、自分に合わせて無理をなさっていたのだ、きっと。そんなことすら、気付けなかったとは。
 昨日は一日、こんな私へのプレゼントを作っていてくれたのだと言う。そのこともきっと神子殿のお疲れのひとつなのだと思うと、申し訳なくて涙が出そうだった。それなのに神子殿は、昨夜、眠る直前までプレゼントが無いことを謝ってくださった。
 好奇心には勝てず、無粋なことは覚悟の上、何を贈ろうとしてくれていたのかと聞けば、ケーキを作ろうと思ったと言う。「頼久さんケーキ好きそうだから」と。そんなに美味そうに食べていたのだろうか?そのへんはきっと永遠に自分ではわからないことだろう。
 それにケーキよりも神子殿の方がよほど愛しい。だから、この寝顔が何よりの贈り物だ。そっと睫毛に触れてみた。柔らかな頬にも。そしてふっくらとした唇にくちづけた。
 いつまでも見ていたい、ずっと大事にしていたい、そんな何よりの、そして私だけの神子殿だ。
 
 
 そろそろお湯を沸かして紅茶を淹れよう。
 もしかしたら起こしてしまうかもしれない。だが、せっかく練習したのだから、是非神子殿に飲んでいただきたい。そして、神子殿が目覚めたら……今日は二人でケーキを買いに行けばいい。

 きっと心配はいらない。ケーキは食べると消えてしまうけれど、神子殿の寝顔は永遠に私だけのものにしてしまえるから。

 そのために、寝顔に、ひとつ……唇で契約を落としたのだ。
 

 



―― fin


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