唇の契約 3 |
「今頃何をなさっているのだろう?」 何をしても、何を見ても、思うのは神子殿のことばかりだ。 携帯電話を手に取っては、画面をじっと見つめ、またパタンと閉じる。神子殿のことが気になり、電話をしてみようかとボタンに指をかけるが、力を入れる寸前にまた指を戻してしまう。そしてその力は内側へと向かい、自分の手をきつく握り締めるのだ。この動作をもう何度繰り返しているだろうか。 食事はとうに終ってしまった。 ……とは言っても、結局ビールを二本あけただけで、ろくなものは食べずに終わらせてしまったのだが。 もともとの性格なのか、さほど食への執着が無い。味わうというよりもむしろ、体力や気力を保つため、もしくは単純に空腹を癒すために食事をしてきたともいえる。だが、神子殿と出会ってからは、味わうということはこういうことかもしれないと、おぼろげにわかってきたように思う。 「美味しいね」と言われれば、首をかしげることもなく素直に頷き、「すんごい美味しいよー」と言われれば、本当に美味しく感じる。 それを一度、神子殿に話した時、神子殿は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに笑った。 「だってそれが食事でしょう?不味いなんて言いながら食べたって少しも楽しくないじゃない?それに美味しいって思って食べないと栄養にならないんだよ」 神子殿の言葉はいつも、単純にして明快。そして常に的確な答えで私を導いてくださる。それに比べて自分はどうだ。 もう一度携帯電話を手にした。そうだ、この電話は決して着信専用ではない。意を決して神子殿に電話を……と思ったのだが、気付けばメールを打ち始めていた。 メールならば、もう何度も送ったことがある。神子殿からいただいたメールには必ず返事をしているのだ。けれど、いつも神子殿への返事を打っている最中に新たなメールが届く。音が鳴ったと思ったら、画面の上の方に封筒のマークが出る。それはいい。だが問題は、今打っているメールを途中にして、その新たなメールを読む方法がわからない。そして、まごまごしているうちに今度はメールではなくて、神子殿から電話がかかってきてしまう。そして「私のメール届いてない?」と仰るのだ。もっと手早く打てばよいのだが、そうそう上手くもゆかない。『あ、い、う、え、お』と打つたびに変わってゆく文字を見ていると、つい目的の文字よりも行き過ぎてしまう。『あ』と打ちたいはずが、調子に乗って『お』まで行ってしまい、また最初から同じことを繰り返す。だが、それ以前に『お』の次に『ぁ』がくるというのは、どうにも解せない。そんなことを考えながら打っているせいか、次の文字を打つまでの間に画面が暗くなってしまった。 「ん?」 ボタンに触れてもいないのに、暗かった画面が点灯し、手の中で震えたかと思うと、いきなり派手な着信音が鳴り出した。そこには『元宮あかね』の文字。 ずっと考え続けていた人の名がいきなり目に飛び込んできて、どうして?と、考える間もなく慌てて通話ボタンを押すと同時に、携帯電話を床に落としてしまった。 「ああっ!」 急いで拾い上げ、「申し訳ありません!」と言いながら耳にあてた。 「もしもし?もしもし?頼久さん?ねえ、大丈夫?」 「はい、すみません神子殿!」 「え?」 しまった。慌てていたせいで、つい神子殿と呼んでしまった。 普段は神子殿のお望み通り、あかねと呼んでいる。だが実際はまだ慣れてはいないようで、ふと顔を思い浮かべたり、あの方について何か考える時はいつも神子殿という名のほうが先に口をついて出るのだ。 「あ、いえ、なんでも。それよりどうなさったのですか?」 「あのね、ええっと……その、頼久さんは今何してるの?」 「いえ、特に何もしていないですよ」 神子殿が言い淀むなど、めずらしいと思いながら答えた。 「じゃあ、あの」 「はい?」 何か話しにくいことでもあるのだろうか? 「これから頼久さんちに行っちゃ駄目かなぁ?」 「えっ、これからですか?」 電話を通して、神子殿がこくんと頷く姿が想像できた。 時計を見ると、10時を少し過ぎたところで、いくらなんでも今からでは遅いのではないかと思う。けれどそれ以上に会いたいと思った。先週末も一緒だった。今日だって、朝も昼にも会っているというのに、それでも神子殿に会いたいと思った。 「ご両親はご存知なのですね?」 「うん、でも……」 「ご両親が反対なさっているのなら、お約束通り明日お会いしましょう」 会いたい、会いたい、とにかく会って神子殿の顔が見たい。その思いはやまやまだが、大事な人に無理をさせることは決してできない。してはいけないのだ。 「違うの!」 「あかね?」 「違うの、そうじゃなくて、今日、何も持っていけないの。それでもいい?」 何も持っていけない?それでもいいか? 神子殿の言っていることが、いまいち理解できなかったが、何らかの障害があるということだろうか?けれど、それでもいいのかという問いは私に向けられている。だが、それが何を指しているのかがわからないため、いいとも悪いとも返事ができなかった。しかし、自分にとっては、神子殿の何ひとつとして、問題になるような事柄は思いつかなかった。 「とにかく……これからご自宅までお迎えにあがります」 「あ、迎えになんてこなくていいの。っていうか、それ駄目なの」 「ですが、夜道は危険です。それこそ心配でたまりません」 「だって、もうアパートの下まで来てるんだもん」 「は?」 急いでカーテンを開けると、道のはじっこに立って、小さく手を振っている神子殿が見えた。 |
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