唇の契約 2 |
「わりと美味しかったね。ケーキも美味しいかな?」 「どうでしょうか?頼まれてみては?」 「頼久さんも食べようよー」 最初に入ろうと思った店は満席で、20分ほど待ってもらえるかと言われた。神子殿は一瞬考えたが、すぐに座れる店がいいということで、結局この店に落ち着き、今は食後にデザートを食べようかどうしようかと迷っている最中だ。 メニューにいくつかケーキの名前らしき文字が並んでいたが、全てカタカナで書かれており、口にすればすぐさま舌を噛んでしまいそうな言葉の意味を理解するのは、どうにも無理そうだった。仕方が無いので、神子殿が頼んだケーキと同じ物を注文した。 ほどなく運ばれてきたそれは、真白く柔らかそうなクリームに覆われ、ぐずぐずと崩れた雪山のような形をしている。フォークを突き刺してみると、柔らかそうな見た目とは裏腹に、予想以上の抵抗感がある。 「頼久さん」 「はい」 「はいじゃないくてさ。頼久さん、寄ってるって」 「はっ?何でしょう?」 「だから、ここ」 ここ、と言いながら神子殿は自分の眉間を指差した。私の真似をしているのか、そこには小さく皺が刻まれている。はっとして、すぐに表情をゆるめた。 「何もケーキ相手にムキにならなくたって。いいから早く食べなよー。すごい美味しいよ!」 「は、はあ。ではいただきます」 さきほどよりも多少力を込めてケーキにフォークを突き刺す。こぼさないようにして口に運ぶと、それは思った以上に美味しいものだった。どこかで食べたことがあるような気もするし、無いような気もする。これまでに何度か神子殿と一緒に、こうした甘い菓子類を食した経験はあったが、どこかで同じものを食べただろうか?ふと前を見ると、今度はクスクスと私を見ながら笑う神子殿がいた。 「な、何かおかしかったでしょうか?」 「ごめん。おかしいわけじゃないんだけどさ、頼久さん、結構甘い物好きだよね?」 甘い物?確かに嫌いではない。 「ええ、苦手ではないようです」 「っていうか、すごい好きだよねぇ?」 そうだろうか?確かにこちらの世界に来てからの食事には、京には無かった甘味を感じるものが多い。しかも、その甘さが特徴となっている、このケーキのような種類の食べ物があることに驚いたと同時に、美味い!と思った。 後にその甘味の元が砂糖だと知り、自分がいた世界では貴重な薬品と言われていたあの砂糖と同じなのかと思うと不思議な気持ちになった。薬とは苦いものと決めてかかっていたからだ。けれど、言われるがまま指についた砂糖を舐めてみたら、本当に甘かった。「甘いです」と、そう言った時も神子殿は今日のようにクスクスと可笑しそうに笑っていた。 「ほんと美味しそうに食べるよね。やっぱケーキ好きなんだ!」 「そう……なるのでしょうか?」 「そうだよ。絶対そうだって!」 好き、なのだろうか?美味いとは思うが、あえて食べようとは思わない。現に、一人で食事を取る時にこのようなものを選んだことは一度もない。食べるとしたら、それは神子殿と一緒の時だけだ。それでも好きなのだろうか?神子殿に言われると、好きなような気もしてくる。 「ええ、好きみたいです」 この返事に満足したのか、神子殿は今日一番の笑顔を見せてくださった。 ほどなくして店を出ると、私は自然と自分の部屋の方角へと歩こうとした。 「あっ、待って」 だが、神子殿は店の前で立ち止まったまま歩こうとしない。少し困ったような顔をして私を見上げている。 「あかね?」 「あっ、あのね、私今日は頼久さんちに行けないの」 「えっ?」 どうして?と言いそうになった。だが心の奥で、それを言ってはいけないという己の本能が制していた。 「ごめん。今日はちょっとやることがあって、これからすぐに帰らなくちゃならないんだ」 「そう、なのですか」 「ごめん。ごめんね。でも明日、頼久さんち行ってもいいかな?」 「今夜ではなくてですか?」 しまった、と思った時には遅かった。神子殿の瞳が困ったように宙を彷徨う。 「すみません。あかねの予定も考えずに。ええ、そうですね、明日また会いましょう。私なら何時でも平気ですので」 「頼久さん?」 「そんなに心配なさらなくても、私は大丈夫ですよ」 心に何かひっかかりが残っているような感覚だったが、それでも無理やり笑ってみせると、神子殿は少し安心してくださったようだ。 「うん。ほんとごめんね。もっと早く言えばよかったんだけど、ちょっとその、いろいろ予定が狂っちゃって。明日、電話してからお邪魔するね」 それから神子殿は、送ってゆくという私の申し出を丁寧に断り、駆け足で去っていった。肩に届くほどに伸びた桃色の髪が元気に跳ねていた。 同じ道を戻り、自分もまた部屋へと帰ったが、取り立ててやることもなかった。いわゆる退屈と呼ばれる時間を持て余し、考えることといえば、今日の神子殿のことばかりだった。 ただ今日たまたま部屋に来ないというだけで、明日にはまた会えるというのに、どうしてこれほどまでにこだわってしまうのか自分でもわからなかった。 これまでだって毎週必ず一緒に過ごしていたわけではない。最初の頃はもちろん部屋に泊まることを決して許さなかったし、神子殿の学校の行事や、それにご友人との予定があって土曜日はおろか日曜にも会えないこともあった。「少しだけ会いたかったの」と平日の夜遅くに駅の改札で自分を待っていてくれた時は、心の底では嬉しかったものの、「それはできません」と家まで送り届けた。その時、神子殿は少し泣かれていて、その姿は心臓のあたりをギリギリとえぐった。すぐにでも抱きしめて、朝までずっとそうしていたいと一瞬願った。だが、それを自分に許してしまえば箍が外れる、それが怖かった。 そうだ、今日だけではない。これまでにだって何度も一人の週末を過ごしてきたじゃないか。それなのにどうして今日は…… 「私は、どうかしてしまったのでしょうか」 呟いてみたところで、返事をするものなどいない。 気がつけば、辺りはすっかり暮れて、窓の隙間から吹き込む風は昼間よりも大分冷たくなっていた。きっちりと窓を閉めると薄いカーテンをひく。まだ7時前だというのに、こんなに暗くなっているとは、秋も深まってきているのだろう。 時間は少し早いが、スーパーで買った惣菜を並べ、簡単な食事を済ませることにした。滅多に飲むことのない、缶ビールを冷蔵庫から一本取り出し、コップと一緒にテーブルに並べた。 「酒でごまかしたい夜もあるもんだぜ」 今の職場で世話になっている男のセリフを思い出す。だからビールの一本や二本くらい常備しておけというのが彼の言い分だった。はたして自分も同じように、ごまかしたい思いがあるのか?いや、そんな卑怯な感情はありえない。けれど、普段は目もくれない缶ビールを手に取ったということは、今夜がそういう夜ということになるのだろうか。 頭の中で絡まる思考とは裏腹に、躰は単純にできているようで自然と缶ビールを開け、せっかく用意したコップも使わずにそのまま口をつけていた。一口飲み込むごとに、きつい炭酸とアルコールが喉を焦がすように落ちてゆく。何も食べずにいきなり飲むのは刺激が強かったか。 パチンとテレビを付けると、よく見るタレントが出ていた。確か、神子殿の好まれる番組のはず。そういえば毎週この番組は、神子殿と一緒に見ていたものだ。 「ふぅーっ」 自分のため息がやけに大きく聞こえる。何か大きな壁のようなものが、周りから自分を隔てているような、そんな奇妙な感覚で、テレビの音も風の音も何もかもが遠くから聞こえてくる。ここで一人で暮らしているのだから、いつだって自分一人であることに変わりは無いのに、あまりにも静かだと思った。 ビールはもう残り少なかったが、結局最後まで喉を焦がしては落ちていった。 |
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