唇の契約 1 |
「あとで部活終わったらメールか電話するね」 「ええ、お待ちしております」 神子殿を駅まで送り、このような会話を交して別れるのが、ここ一年ばかりの土曜の朝の習慣のようになっている。 早朝ということもあり、特に待ち合わせや約束をしているわけではない。通常の授業は無いが、その代わりに課外活動のためにいつもよりも少し早く登校する神子殿と、自分はといえば、この世界に来てもなお続けている朝の鍛錬の時間が上手い具合に一致するのだ。 本来ならば出勤前の、ごくごく早い時間に行うからこそ鍛錬なのだが、土曜日は仕事が休みという理由でつい遅れがちになることが多かった。最初こそ自分の精神が弛んでいると戒めたものだが、今から思えば当時は余程に疲れていたのだろう。結局、この世界に慣れるにしたがって土曜であろうと日曜であろうと、以前の生活と同じように、毎朝、決まった時刻に起床できるようになってしまった。 だが、ある日偶然とはいえ登校途中の神子殿と出会ってからは、いつも通り早い時間に目覚めても、さして乱れてもいない部屋の整理や、湯をわかして茶を飲むといった行為を鍛錬よりも先にしたり、近くの公園までの道のりを何故かゆっくり歩いている自分がいる。 これは断じてわざとではない。と、している最中はそう思っているのだが、制服姿の神子殿が「今週も会えましたね」と仰ると、途端にどうしようもない羞恥に襲われ、まともに顔を見ることすらできなくなってしまう。そこから駅までの道のりは自分を落ち着かせることに必死で、神子殿が「それじゃあ」と改札に向かう頃になってようやっと自分を取り戻すのだ。 「じゃあ、行ってきまーす」 「行ってらっしゃいませ」 ひらひらと、けれど小さく手を振るのが神子殿の癖のようだ。 ちょうど耳の横あたりで振っていた手を不意に止めると、嬉しいのか恥ずかしいのか私には判断できないような表情で下唇をきゅっと噛む。そして二歩、三歩と小走りに駆けてきてこう言うのだ。 「頼久さん、帰り道わかる?」 神子殿とはこういうお方だ。 同じ町に暮らし、もう一年以上も毎日のように利用している駅だということを、神子殿とて知らないわけではない。この一年だけで考えれば、夏や冬の長期休暇のある神子殿よりも、駅を利用した回数は多いかもしれない。ましてここまで送ってきたのは紛れもなく私自身なのにだ。それでも、毎週別れ際には「送っていかなくても大丈夫?」と私を心配そうに見つめるのだ。そう、神子殿はこういうお方なのだ。これがあの方の優しさであり、これこそが人を愛しむ心というものなのだろう。この瞬間いつも私は、自分が持ち合わせない美しい心にじかに触れたような気持ちになる。 以前、京を離れる直前も、神子殿は私を心配して下さった。その頃、よく仰っていたことがある。 これから赴く世界は、これまで自分が長いこと生きてきた世界とは全く違うものだと。 これから私が戸惑うであろうことを何ひとつ隠さず、あの方は丁寧に繰り返し教えてくださった。何度も何度も念を押すように。そして時折、心配そうな顔で「本当にいいの?」と、私を見上げる瞳に「もちろんです」と頷いたことも数え切れない。 当然、中には私には理解できない言葉もいくつかあったが、その時の神子殿の表情や、横から口を挟む天真の言葉から、さほど心配することもないと思えた。だから「もちろんです」という言葉に偽りはなく、頷くことを躊躇ったことなど一度もなかった。 それに、どんな世界であろうと、私はあの方の傍らで、生きていけることが……しかも魂だけでなく、この躰までも神子殿と共に在れるということが、自分には過分の幸せであると信じていた。ただ、もうそれだけで十分なのだと。 そうやって連れてきていただいた世界なのだから、自分の知識や常識と違ってあたりまえであるはずなのに、実際のところは、新しい世界という言葉では足りぬほどの衝撃に、しばらくは上手く口がきけなかった。まさに異世界、不思議の国に来てしまったのだと、この目で見て初めてわかったのだった。 今から思えば、己の鍛錬不足で神子殿の御心を痛めてしまったことこそ恥じ入るべきだったのだが、あいにく、そんな余裕は持ち合わせていなかった。 そんな風に途方に暮れながらも、一日一日をこなしてゆき、少しずつでもこちらの世界の常識に慣れてゆくと、知らないうちにそれが自身の常識や習慣にも成り代わっていった。もちろん変わらないものもたくさんある。自分が不必要なまでに躰と精神を鍛え続けているのも、神子殿を守るためであると同時に単なる習慣とも言えるだろう。そして、神子殿のあの美しい御心も、初めて出会った時と少しも変わらずに、本当に大切に守らなければならないものを私に教えて下さるのだ。 そんなことを考えながらアパートへと戻ると、いつも以上に念入りに部屋の掃除をしたり、神子殿がお好きだという紅茶の葉を揃えたりする。正直、茶と呼ばれるものの、どれ一つをとってみても香りや味の違いはわからない。会社の帰りに立ち寄る店の主人に薦められるまま購入しているだけだし、淹れ方だって受け売りなのだ。 土曜の午前中を、こうして神子殿からの電話を待って過ごすことも、知らぬうちに習慣になったことの一つだ。 時計の針が午後2時に近づく頃、携帯電話の着信音が鳴る。神子殿の「これから頼久さんちに行っていい?」という声が始まりを告げる合図で、それから翌日の日曜の夜にかけて、神子殿と一緒に過ごす。こんな週末を過ごすようになってから、もう半年以上経つだろうか。 「泊まってっていい?」 初めて言われた時は、断じて首を縦に振らなかった。一人暮らしの異性の家に泊まるなど、とんでもないことだと本心から思った。今も思っている。確かに今も思っているのだが、「どうして駄目なの?だって私たち、恋人同士でしょう?」と言われると、その主張もまた真実だと思うのだ。それに自分がどうあがいたところで、神子殿を説得できるとは思えない。 だから今日、神子殿からの電話で、いつもと違う言葉を聞いた時は了解をしたものの、一瞬の戸惑いを隠せなかった。 それはちょうど、これから訪れるだろう神子殿のために、紅茶を淹れる練習をしていた時だ。いつもよりも少し早め、確かまだ12時半にもなっていなかっただろう。例外とも言える時間に電話が鳴ると、どういうわけか悪い連絡なのではないかと勘ぐってしまう。液晶にはちゃんと『元宮あかね』という文字が表示されているにもかかわらずだ。わずかな躊躇いの後、通話ボタンを押すと、途端に弾むような神子殿の声が耳に聞こえてきて、胸を撫で下ろす。だが、その後神子殿は思いもしない言葉を告げたのだ。 「ねえ、頼久さん、今日は駅で待ち合わせして、どこかで一緒にお昼ご飯食べようよ」 「えっ……」 「あ、もしかして今忙しい?ほら今日いつもより早いじゃない?まだ出られないとか?」 「……」 「もしもし?聞こえますかー?」 「あっ、すみません!あ、その、今から駅まで迎えに行きます」 「頼久さん、大丈夫?」 こちらを伺うような神子殿の声に、慌てて返事を返した。 「はっ、いえ、そ、そのご心配なく」 「じゃあ、あと10分くらいで着くから改札で待ってるね」 自分でもどうしてここまで驚いてしまったのか理解できない。ただいつもより時間が早い。たまたま直接、部屋に来ない。ただそれだけのことじゃないか。 そう思いながら火の後始末をして、簡単に着替えるとアパートを後にした。 静かな住宅街を10分ほどゆくと、一本の大きな商店街へとぶつかる。右に曲がり後はまっすぐ。そこが最寄の駅だった。 今朝、神子殿を送って歩いた時には、まだほとんど閉まっていた商店が、にぎわいを見せている。食事をするのはどこがいいだろうか?と、いくつかの飲食店を覗き見しながら神子殿の待つ駅へと急いだ。 ちょうど電車が着いたばかりなのだろう、様々な制服を着た人々で改札はごったがえしていた。その中に小さな神子殿の姿が見えた。鞄を後ろ手に持ちながら、きょろきょろと瞳を左右に動かしては、また元に戻し小首をかしげる姿は、私を見つけようとしているのだろう。 「あかね!」 大きく手を振りながら、神子殿の名を口にしてみたが、返事は無かった。 お気づきになられないようだ。あらためて遠目に駅舎を眺め、確かにこの距離では見えないだろうと苦笑した。だが、おかしい。私には神子殿がそこにいることが分かってしまう。いつもそうなのだ。 |
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