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「あかね?どうしました、あかね?」
頼久の声に、あかねはハっとして気が付いた。
初めて「知らなかった」と思ったのは今と同じように「あかね」と名を呼ばれた時の、頼久の声にだった。
あれは、いつだっただろうか?あかねの記憶では、この世界に戻ってきてから割りと早い時期だったように思えるが・・・・・・いずれにしろ、名前で呼ばれるようになってから、いくらかの時間が経っていることには違いない。
京での時間と、こちらの世界に来てからの少しの間、頼久はあかねのことを「神子殿」と呼んでいた。時に眩しそうに、時に溢れんばかりの愛情と変わることのない敬意を込めて、まるで大切な言葉を紡ぐように呼んでいた。
あかねは、そう呼ばれることは決して嫌ではなかったけれど、それでも街中など、他人の前で「神子殿」と呼ばれる度に、周囲の人たちの視線を感じては、恥ずかしさを感じていたのは確かだ。
だから、頼久が「あかね」と名前で呼んでくれるようになった時はとても嬉しかったことを覚えている。しかも、呼び捨てにされることで、自分が頼久の主ではなく、普通の恋人という存在になれたような気もして、内心ではドキドキしていた。
そして何より「あかね」と呼ぶ頼久の声に、彼の指の先に見える大きな爪と同じくらいの硬質さを感じて、頼久さんがこんな声を出すなんて知らなかったと思っていた。
それなのに。
それなのに、最近では自分の名を頼久が呼ぶ度に全く違った感情があかねの中に湧き上がる。
頼久が「あかね」と呼ぶ時はいつも、口を開く前に、ほんの一瞬ではあるが眉をしかめる。それから何かを吹っ切るかのように息を吸う。この一連の動作を頼久は無意識のうちに行っているらしい。が、一瞬であろうとも眉をしかめる頼久、と同時に眉間に皺が刻まれる様が、あかねの目に入ってしまう。それは、京の地で、頼久が困っている時、怒っている時、動揺している時・・・・・・何度となく目にしてきた表情だった。
・・・・・・私の名前を呼ぶのって、ほんとは嫌なのかな。なんて、こんなことを考えちゃう自分も嫌だけど。
だが、一度見えてしまったものは、次からは一段とその輪郭を色濃くし、あかねに見せ付けるかのように迫ってくる。ひとつのことが気になり出すと、他にも何か見つけようとしてしまうのはどういう心理なのだろう。望んでいるわけでもないというのに。ちょうど虫か何かに刺された時に、痒くも痛くもない周囲の皮膚までも掻き毟ってしまうことに似ている。何度も何度も掻き擦られて、乾く間もないかさぶたは気付かぬうちに大きくなっている。
あかねも自分でも気付かないうちに、自分の心を掻き毟っていた。「知らなかった」と嬉しく思っていた心は、次第に「変わってしまった」と感じるようになり、そのうち「こんな人じゃなかったのに」と思ってしまいそうで怖かった。
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