[恋色3]




 「あかね?どうしました、あかね?」

 頼久の声に、あかねはハっとして気が付いた。
 初めて「知らなかった」と思ったのは今と同じように「あかね」と名を呼ばれた時の、頼久の声にだった。
 あれは、いつだっただろうか?あかねの記憶では、この世界に戻ってきてから割りと早い時期だったように思えるが・・・・・・いずれにしろ、名前で呼ばれるようになってから、いくらかの時間が経っていることには違いない。

 京での時間と、こちらの世界に来てからの少しの間、頼久はあかねのことを「神子殿」と呼んでいた。時に眩しそうに、時に溢れんばかりの愛情と変わることのない敬意を込めて、まるで大切な言葉を紡ぐように呼んでいた。
 あかねは、そう呼ばれることは決して嫌ではなかったけれど、それでも街中など、他人の前で「神子殿」と呼ばれる度に、周囲の人たちの視線を感じては、恥ずかしさを感じていたのは確かだ。
だから、頼久が「あかね」と名前で呼んでくれるようになった時はとても嬉しかったことを覚えている。しかも、呼び捨てにされることで、自分が頼久の主ではなく、普通の恋人という存在になれたような気もして、内心ではドキドキしていた。
 そして何より「あかね」と呼ぶ頼久の声に、彼の指の先に見える大きな爪と同じくらいの硬質さを感じて、頼久さんがこんな声を出すなんて知らなかったと思っていた。
 それなのに。
 それなのに、最近では自分の名を頼久が呼ぶ度に全く違った感情があかねの中に湧き上がる。
 頼久が「あかね」と呼ぶ時はいつも、口を開く前に、ほんの一瞬ではあるが眉をしかめる。それから何かを吹っ切るかのように息を吸う。この一連の動作を頼久は無意識のうちに行っているらしい。が、一瞬であろうとも眉をしかめる頼久、と同時に眉間に皺が刻まれる様が、あかねの目に入ってしまう。それは、京の地で、頼久が困っている時、怒っている時、動揺している時・・・・・・何度となく目にしてきた表情だった。

 ・・・・・・私の名前を呼ぶのって、ほんとは嫌なのかな。なんて、こんなことを考えちゃう自分も嫌だけど。

 だが、一度見えてしまったものは、次からは一段とその輪郭を色濃くし、あかねに見せ付けるかのように迫ってくる。ひとつのことが気になり出すと、他にも何か見つけようとしてしまうのはどういう心理なのだろう。望んでいるわけでもないというのに。ちょうど虫か何かに刺された時に、痒くも痛くもない周囲の皮膚までも掻き毟ってしまうことに似ている。何度も何度も掻き擦られて、乾く間もないかさぶたは気付かぬうちに大きくなっている。
 あかねも自分でも気付かないうちに、自分の心を掻き毟っていた。「知らなかった」と嬉しく思っていた心は、次第に「変わってしまった」と感じるようになり、そのうち「こんな人じゃなかったのに」と思ってしまいそうで怖かった。
 







 「ねえ、頼久さん、何か最近へんじゃない?」
 「へんですか?そうでしょうか」
 「うん、何か違う人と話してるみたい。もしかして疲れてる?」
 「いえ、そんなことはありません」
 「でも・・・・・・」
 「そんなことより・・・」




 雨上がりの夕方の住宅街を、ぼんやりと一人歩くあかね。あたりからは夕飯の仕度なのだろう、温かな匂いが漂ってきていた。




 あの後、頼久は無理に話題を変え、急にあかねの髪の毛に触れた。
 
 「…あかね、髪が伸びましたね」
 「え?」
 「あ、いえ、髪が長くなったなと思ったので」

 頼久が不思議そうな顔であかねを見る。あかねはまた頼久の眉間を見つめていた。

 「あ、ああ、ごめん。聞いてるよ」

 ・・・・・・私が気にしすぎなのかな。
 頼久さんはちゃんと私のこと見ててくれてる、ほら今だってちゃんと髪の毛が伸びたことに気が付いてくれた。少しでも大人っぽくなりたくて伸ばしはじめた髪の毛がようやっと結べるようになって、今日は初めて少し高めの位置でひとつにまとめてみた。気に入ってくれたかな。朝、自分で結った時はそれなりに様になっていると思ったけど、頼久さんはどう思うだろう?
 
 「うん、結わけるようになったの。変かな?」

 あかねは恥ずかしそう少しはにかみながら言った。
 変かな?などと、相手の出方を伺うような聞き方をしたのは、初めて結った髪が自分に似合っているかどうか自信がなかったからで、少し笑ってみせたのは、それでもやっぱり「似合っている」とか「可愛い」とか、頼久に誉めてもらいたかったからだ。
 頼久は直接言葉にはしてくれないかもしれないから、あかねはその顔をじっと見つめることにした。女の子はいつだって好きな人の中で一番の可愛い子の位置にいたい生き物だから、彼のほんの僅かな表情も見逃したりなんかできやしない。なのに頼久はすぐには口を開かなかった。

 ・・・・・・あれ?に、似合ってないのかな。こういうの嫌いなのかな。

 「似合わないということはないのですが」

 頼久はそう言いながら、あかねから視線をそらした。だが、だからと言って自分の言葉を切るつもりはないらしい。むしろ、あかねを見ないことで頼久は喋りやすくなったようだった。

 「そうして無防備に肌をさらすような髪型は、女性としてあまり感心はできません、それにあかねには少し早いのではありませんか?」
 「え・・・・・・」

 何を言い出すのかと思えば、結局は人前でうなじを出すなと言いたいらしい。嫉妬?独占欲?そんなものがごちゃ混ぜになった結果が、感心できないという言葉になってあらわれたのだろう。いかにも頼久らしいと、普段のあかねなら思えたのかもしれない。けれど今のあかねには、そこまでの余裕はなく、頼久に似合わないと言われているようにしか思えなかった。
 頼久がこの時、あかねから視線をそらさなければ、彼女の表情が見る間に雲ってゆき、今にも泣き出してしまいそうな顔で自分を見つめていたことに気が付いただろう。が、頼久は知らない、見ていない。
 この時、自分が頼久に何を言ったのか、あかねはあまりよく覚えていない。ただ自分の目の前で頼久が次第に追い詰められたような表情になり、部屋を飛び出した自分を追いかけてくれなかったことだけははっきりと覚えている。
 

 もうすぐ自宅に着く頃になって、あかねはすれ違う人たちが傘を手にしていることに気が付いた。自分が頼久の家に傘を忘れてきたことにも。



 翌日の日曜、あかねは休みだというのに早朝から起き出していた。
 頼久に電話をしてみようか?いや、アパートまで行ってみようか?そんな風にして、いくつも洋服を着替えたり、今度は髪を結わかないで行こうと思っては鏡の前で奮闘したり、それでも勇気が出ずにまた部屋着に着替えると、結局は一日中ベッドの上でゴロゴロと過ごしてしまった。
 
 「あーあ、私なにやってんだろ」

 この日は結局、夜寝るまで一度も携帯電話が鳴らなかった。

 次の日からは普段通りの生活が始まった。
 毎日学校に行かなくてはならないし、部活もあれば時にはアルバイトもある。頼久のことが頭から離れなかったのは事実だけれど、実際に何か行動を起こす時間もなかったし、いつまでたっても勇気も出なかった。多分、それは頼久も同じだろう。頼久とて一介の社会人。恋人と喧嘩だの、悩み事があるだの、その程度のことで仕事を休んでなんていられないだろうから。

 そして何事も起きず、頼久と連絡を取らぬまま、あの日から一週間が経ち、また土曜日がやってきた。







 頼久は布団から起き出すと、顔を洗い身を整えた。簡単に部屋を片付けた後、おもむろに押入れの前に正座する。
 ピンと背筋を伸ばし、深く息を吸うと思い切ったように押入れのふすまを開けた。中にはいくらかの衣類と、たった一本だけ京から持ってきた刀が奥の方に転がっていた。

 「刀はそれを持つ人間の心鏡だとはよく言ったものだ」

 頼久は刀を手に取ると、忌まわしい物を見るような目つきで睨みつけた。

 「己も、ここまで腐ってしまっているのか」

 手入れの全くなされていない刀は最早、剣などと呼べる代物ではなかった。鞘から抜く時ですら、こびり付いた錆が擦れては無粋な音を立て、とても一息で抜くことはできなかった。だがそれは、刀の状態のせいばかりではない。刀とは本来、力ずくで抜くものでも、斬るものでもない。力任せに何度も切りつけ、最終的に切り落とせればよいというのは、武士ではなく、あえて言うならば魂も絆も何も持たない卑しい賊の生き残る術でしかない。刀とは心で抜き、心で一斬するものだと幼い頃から教わってきたのだ。

 頼久は刀を元の場所に戻すと、再び視線を玄関に戻した。目に飛びこんでくるのは、先週あかねが忘れていった赤い傘。と同時に、あかねが残していった言葉が蘇る。「疲れてない?」そう気遣って訊いてくれたあかねに自分は言葉を濁した。わざと話題を変え、あかねの気持ちも考えずに乱暴な意見を言い放った。
 正直、疲れている。いまだ慣れることのないこの世界は、自分が必死で追いつこうとする度に、それを見透かすようにどんどん先へ進んでしまい、その差は広がるばかりだった。
 身体も心も、いつも緊張していて、一瞬たりとも気を抜けば、すぐにでも京にいた頃の自分に戻ってしまいそうだ。
 「嫌われたくない」その思いだけでやってきた生活は、常に奥歯を噛み締めてぎりぎりと精神を削り取ってゆく。
 実のところ、あかねと会う週末はその疲れが限界まで達していて、最近ではあかねとの時間を楽しむというよりも、なんとかそれを悟られないようにとばかり思うようになっていた。だが、それをあかねに知られるのは嫌だった。幻滅されたくないという男の意地なのかもしれない。

 
 もう一度、傘を見る。
 今日は自分の誕生日で、週末。いつもならば待ち合わせをしたり(待ち合わせの時間よりも先に着いたからと言って、買い物をしていたりするととても怒られる)、自分の部屋で過ごしたり(夏には風鈴の音が、冬にはこたつが、ふと気付けばいつも居眠りをしている彼女の言い訳にされている)、慌しい現実の中で一日とちょっとの時間をあかねの傍でまどろめる時だ。しかも今日は自分の誕生日で、一緒に出かける約束をしていた。
 あれから一週間、考えることといえばあかねのことばかり。いつも、どんな時も。とりわけ帰宅した際に赤い傘を見ると、深夜であることも忘れ、飛び出してゆきたくなった。だが、この一週間、結局一本の電話もせず、メールも送らなかった。あかねから連絡がなくなれば、こんなにも簡単に二人は途切れてしまうのだろうか。

 頼久は立ち上がり、靴をはくと片手に自分の傘を。もう一方の手に真っ赤な傘を持った。

 発券しておきますと言ったチケットは結局うまくいかなかった。そのかわりになるものを見つけることも頼久にはできなかった。
 あかねに会いたい。でも事実を告げれば、落胆と呆れが待っているのではないかと思うと、逃げ腰になる。

 けれど約束は約束だ。時間も場所も何も決めていないから、今日は自分があかねを迎えにゆこうと思う。
 時間はまだ午前中で、今から出向けば学校にあかねを見つけることができるだろう。もしそれが駄目ならば自宅を訪ねるつもりでいた。
 そこまで考えると、頼久の頭の中は既に約束やらイベントのチケットなどという事よりも、ただあかねに会いたいという、この一週間願い続けた思いだけに満たされた。

 週末の少し空いている電車に揺られ、目的の駅で降りた頼久。
 駅の構内を抜け階段をあがり、外に出て初めて、自分が車内に傘を忘れてきたことに気が付いた。手にしっかりと握られていたのは自分のものよりも一回り小さい真っ赤な傘。あかねの傘。
 多少、小雨になったとはいえ、降り止みそうもない空に、頼久は申し訳ない気持ちであかねの傘を広げようとし、あまりに強く握り締めていたせいか汗ばんだ手のひらと傘の柄を慌ててハンカチでぬぐった。

 あかねの学校までは一本道だった。
 今日は傘の花で埋まっている、この一本道の先に、不器用に咲かせた赤い花が窮屈そうに揺れていた。
 






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