[恋色2]




 10月9日、早朝。
 ガタガタ、カタンという乾いた音に、頼久は目を覚ました。
 足早に去ってゆくスニーカーの音を聞きながら視線だけを玄関へと向ける。

 少し首を捻るだけで、その全てが見渡せる狭いアパート。
布団から出なくとも、たとえ首を捻る暇さえなくとも、ただ視線を動かすだけでも居間(兼寝室)から続く小さな台所と、風呂場のドア、そして玄関までが一瞬にしてその視界に入ってくる。

 そんなアパートの一室。
 ここは、家賃は収入の三分の一までという、都会ではなかなか守れない家計の原則をきっちりと守った頼久の現代での住まいだった。

 先ほどの音のせいで、目を向けたアパートの玄関。壊れてふたが開きっぱなしになっている郵便受けには何も入っていない。カタンという音は隣の部屋に新聞が届いた音。だが、頼久の目は郵便受けなど見ておらず、最初から他の場所・・・狭い玄関のたたきの、そのさらに隅っこに置き忘れられた真っ赤な傘を見つめたまま動かなかった。
 全体的に薄暗い部屋の中で、この一角だけに、まるで赤い花が咲いているような明るい色を放っていた。

 玄関とは反対側にあるベランダからは昨夜から降り続く雨が見えた。雨の勢いは次第に強まって、先ほどから幾筋かの水の流れを窓ガラスに作り出していた。
 けれど玄関に置かれた傘は、からからに乾いていて、今にも、ぱたりと音もなく倒れてしまいそうだった。

 頼久は傘を見つめたまま、あの日から丁度一週間経ち、また雨の土曜日がやってきたことを考えていた。そして今日が自分の生まれた日であることも。
 







 一週間ほど前、土曜日。
 あの日も雨が降っていた。今日と同じように。


 週末の午後、あかねは学校帰りに頼久の部屋に行くことを楽しみにしていた。
 あかねとしては週末だろうと平日だろうと、いつだって会いたいけれど、頼久はなかなかそれを許してはくれない。
 以前、あかねが「なんで駄目なの!」と抗議したこともあった。しかし、その時の頼久は少しだけ驚いた表情を見せながらも、「駄目なものは駄目です」と頑として譲らなかった。よくよく聞けば、平日は自分の仕事が遅いために、自分の家だろうと別の場所であろうと、あかねを長い時間待たせてしまうだろうし、家まで送り届ける時間が深夜になってしまうことを避けるためだったので、あかねとしてはそういう理由ならと仕方なく納得はしたものの、寂しい気持ちに変わりはなかった。
 だから唯一ともいえる、自由に過ごせる週末の時間をあかねはとても楽しみにしていた。
 授業を午前中で終えたあかねは、駅のホームで携帯電話を使って頼久に連絡をとる。何度かのメールのやりとりの後、あかねは満足そうに微笑むと携帯電話をマナーモードに設定しパタン折りたたんでカバンにしまった。あとは電車に揺られ、頼久の待つ駅を目指すだけ。あかねは久しぶりに会える恋人の顔を思い浮かべながらも、一方では着いたらまずは食事だなと自分のお腹具合に気を取られていた。




 「そうだ」

 食事を終え、部屋に落ち着いたあかねが、思い出したように切り出した。

「ねえ、頼久さん。この前言ってたイベントね、あれ予約できたんだ。うん、大丈夫みたい。私、近いうちに取りに行ってくるね」
 
 あかねが自分の携帯の画面を確認するように見ながら言うと、頼久もまた自分の携帯電話を取り出し、不規則に指を動かしながら答える。

 「ああ、そのチケットなら確か予約番号とコードも分かりますし・・・そうですね、じゃあ私が来週、仕事帰りにでもコンビニで発券してきます」
 「え?・・・・・・コ、コンビニ?」
 「はい」
 「コンビニってコンビニだよね?」
 「そうですが。それがどうかしましたか?」
 「あ、い、いや別にいいの、なんでもないから。じゃ、じゃあお願いしよっか、な、ね、うん」
 「・・・・・・あかね?大丈夫?」
 
 目を左右に泳がせながら、ぎこちない喋り方をするあかねの顔を頼久は覗き込み、大丈夫かとたずねる。しかし、そんな頼久にあかねは「え?あ、うん」などと、何とも頼りない返事しか返せない。

 コンビニ?
 それって、機械を使ってチケットを購入するってこと?
 携帯電話を使いこなす姿ですら、まだ少し慣れなくて「本当にわかってるの?」なんて思ってしまうのに、そんな頼久の口からコンビニで発券なんて言われても、なかなか現実的に考えることができない。
 ・・・・・・知らなかった。
 頼久さん、そんなことまで出来るようになってたんだ。

 とにかく。
 
 「じゃあ、来週の土曜日はお出かけだね。絶対だよ」

 あかねは気を取り直して頼久に言った。







 頼久を連れて現代に戻ってきたあかねが「知らなかった」と、そう思った回数は、もう数え切れない。一番はじめに思ったのはいつだっただろうか?

 京という時代に生まれ、生きてきた頼久を連れ、彼にとって異世界である現代へと時空を超える。この、頼久の人生そのものを背負うことになるかもしれない行為を、あかねは簡単に決断できたわけではない。
 迷い、苦しみ、相談し、反対されては、また迷う。一度は決めかけた自分の心に繰り返し自問する。
 生まれも育ちも、何もかも異なる世界に生きてきた人。
 互いの過去も、暮らしも、何ひとつ共有するものはなく、二人にあるのは、ただ同じ目的のために闘ったという事実と、あとはただ、たとえ限りのある未来だとしても、同じ空の下で、同じ大地の上で生きていたいという願いだけ。
 それでもこの人と。
 そうあかねが決心したのは、子供の考えであるかもしれない。けれど、自分がこの世に生まれてきたのも、この京の地を踏んだ意味も、頼久の手を取り、頼久に手を取られるためだったからと、あかねは自分で決めた。
 
「神子殿、あなたの世界に、どうか私を連れて行ってください」

 そして、頼久の言葉に頷いた日から、あかねは何があっても頼久を守ると心に決めた。
 守るという言い方は大袈裟かもしれないが、あの時のあかねは「今度は私がこの人を守っていくんだ」と真剣に意気込んでいた。もしかしたら頼久は、自分や天真以外の人間とのコミュニケーションを取れないかもしれない。そうなれば仕事はおろか、日々の暮らしにも事欠いてしまう。そして・・・何よりも頼久が自分自身を見失ってしまうことだけは避けたい、そう思っていた。

 だけど・・・
 本当はもっと単純な理由だったのではないかと、今になってあかねは思う。例えば、頼久が好きだからとか、頼久のことをもっと知りたいとか、そんな単純で素直な気持ちだけで現代まで一緒に帰ってきたのではないかと。それに、どんなドラマチックな出来事だって、はじまりはこんなものかもしれない。

 結局、現代での頼久は、あかねが思うよりもずっと早く、異なる風習や生活様式に慣れていった。
 実のところ、あかねはこの事実に驚きを隠せない。
 それはもちろん喜ばしいことだけれど、時折、あの京での頼久は夢だったのではないか?「神子殿お傍に」と言った頼久は、まったくの別人だったのではないかと思ってしまうほどに、今の生活に溶け込んでいる。
 唯一変わらない長めの髪だって、誰がどんなヘアスタイルだろうと、それを咎める者はこの時代にはいないから、結局のところ何の問題もなかった。
 
 現代の生活にどんどん慣れ、不自由なく暮らしている頼久の姿は、当たり前のことながら初めて見る頼久ばかりで、つい「知らなかった」と思ってしまう。それはすなわち、頼久に対して変化を見つけたからこそ沸く感情だ。

 「頼久さん変わったねぇ」
 「そ、そうでしょうか」

 「本当に変わったねぇ」と、あかねがあまりにしみじみと口にするものだから、頼久はその度に妙に照れて、かしこまってしまうのがこれまでのパターンだった。

 けれど、ここ最近の頼久は本当に変わったと思う。何がどうとか、だから嫌だとか、あかねは言葉では表現できないものの、頼久の言動にほんの僅かながら違和感を感じる。「変わったね」と言葉にすることを思わず躊躇ってしまうことも多くなってきていた。

 一番初めに「知らなかった」と思った出来事は何だったろうか。その時は確かとても嬉しい気持ちになった。そう、最初の頃あかねは、頼久の変化に気付くたび、自分の世界を受け入れてくれたような気がしていた。

 ・・・・・・最初って、いつだっけ?
 





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