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「あかね殿!お待ちください」
 頼久があかねを追いかけ、台所に入った時には、あかねは台の上に置かれた調理途中の素材や、既にできあがり、皿に移されている惣菜を一つ一つ見ては「わ、何これ?頼久さんが作ったの?」と、嬉しそうな声をあげていた。
「そ、それはですね、その……」
「なんで?なんで頼久さんがお料理してんの?てゆうか、藤原さんが今日お休みなのは知ってるけど、橘さんは?」
 あかねの言う、藤原さんと橘さんとは、ここ元宮家に勤める女中の二人のことだった。
 いつも温和な笑顔を見せ、優雅な立ち振る舞いをしつつも、その実心配性で、曲がったことが大嫌いだという藤原と、仕事はそつなくこなすが、ぱっと見は派手で、どこかいつも飄々とした橘。この橘は女中なんかよりも他に、もっと似合う仕事があるんじゃないかと思うほど、華やかな印象を人に与える。この二人が時々言い争っているのを、あかねも頼久も耳にしていた。いろはの「い」の字から始めようとする人間にとって、いきなり「ゑ ひ も せ す」と、上手くまとめてしまう人間を理解するのは難しいことなのかもしれない。けれど、なんだかんだと言い合っていても、二人のバランスは上手く取れているようで、橘の持つ曖昧さや、彼女の人をからかうような物言いが藤原の良い息抜きになっていることを、元宮家の人間はよく知っていた。
「橘さんなら、さきほどお帰りになられましたが?」
「え?だってまだ3時過ぎだよ、それに今日は橘さん一人の日でしょ?急用でもできたんだって?」
 あかねの素朴な疑問に、頼久はぽんっと手を打つような仕草をし、そう言われてみればそうだ!というような、初めて納得できたかのような顔で「確かに!」と一人ごちた。
「もしかして理由知らないの?それで帰しちゃったの?あー、お母様が帰ってきたら橘さん怒られちゃうよー」
「ああ、そうでした」
 頼久のその声に、困ったな、と腕組みしていたあかねが、ぱっと顔をあげた。
「頼久さん、何か理由知ってるの?内容によっては私からお母様に上手く言ってあげられるんだけど」
「あ、その……橘さんのことではなく、あかね殿のお母様は本日のお帰りが遅くなるそうです」
「は?」
 この人、何言ってんだろ?自分の母親の帰宅が遅いことと橘さんが帰ってしまったことと何の関係があるのか、あかねには皆目検討がつかなかった。
「ですから、そう橘さんが仰ってたんです」
「どういう意味?」
「ですから、橘さんがお帰りになる前に、奥様からご連絡があったとかで」
「だから、それはわかってるんだってば!」
 せっかちなあかねが、頼久の言葉を途中で遮るように、声を荒げる。一方、頼久といえば、自分が何か間違ったことでも言っているのだろうかと、両の瞳を、上へ下へとせわしなく動かしては、首をかしげた。その仕草には、生真面目な性格が実に見事に表れていた。きちんと説明しているつもりなのに、あかね殿がこんなに苛つかれるのは、はたしてどういうことだろう?もう一度噛み砕いて話すべきだろうか。
「いいですか、あかね殿。よく聞いてくださいね」
「言われなくたって、さっきから聞いてるでしょう!」
 本当に聞いていたのならば、わかるだろうと思ったが、頼久はあえてそれを口にしなかった。
「橘さんは、私が道場より帰宅した時には、まだこちらにいらっしゃいました」
「うん、それで?」
「はい、それから私が、台所を使わせていただけないかと申しましたところ、快くお貸しくだいました」
「ふうん、だからそれで?」
 頼久の話って、どっからが本題なのかぜんぜんわかんないんだけど。もしかして、自分の今日一日の出来事を全部話すつもりじゃないでしょうね?
「その時、橘さんが私に、今日は奥様のお帰りが遅くなるとのことです、と仰って、それから……」
「それから!?」
「ええと、それから、私に、今日はもう仕事は終わったのか?と聞かれたものですから、私がそうだと答えましたところ」
「うん、で?」
「それなら、よろしくお願いしますと仰って、お帰りになりました」
「はあ?」
「はあって、それだけですよ」
「あのさ……」
 ねえ、それってさあ、頼久を上手く使ってるってことなんじゃないの?
 あかねが思うに、橘の考えはこうだ。
 この家の主人の帰宅は深夜になることが多いから、自分が顔を合わせることは滅多にない。そしてその奥方も社交のため家を空けることが多く、夕食時に姿が無いことはめずらしくはない。となれば、自分が夕食後までいようといまいと、誰にもわかりはしないだろう。だが、問題は娘だ。毎日夕方になると腹を空かして帰ってくる娘のあかねが、自分がいないことを知ったら……。いや、そんなことよりもむしろ、おやつや夕食の準備をするものがいないとなれば、黙ってはいないだろう。娘にとって重要なのは、自分がいるということよりも、食事の仕度をする人間がいるかどうかという点なのだ。自分でなくたって、誰かいればいいのだ……だったら……今日はちょうどお誂え向きの男がいるじゃないか!……と、こんな風にして、頼久にまかせてしまおうという魂胆だったのだろう。
「なるほどねー」
「は?」
 一人でにやにやするあかねの横で、頼久は自分の話がきちんと伝わったのかどうか不安げな顔であかねを見ていた。不意に声を出して笑ったりしているが、特に可笑しい話をした覚えはない。
「ねえ、その時さ、橘さん笑ってなかった?」
「あ、はい、そうですね。にっこり笑っておりました」
「ふふっ。そっかー。まあ悪い人じゃないんだけどね。やることはきちんとやってくれるしさ」
「はあ、そうですね」
 あかねの言うことは、いまいち腑に落ちなかったが、悪い人ではないという部分では同感だったので、頼久は曖昧ながらあかねに肯定の返事をした。
「ま、いっかー。今回のは貸しだな。今度、橘さんにプディングってやつ作らしちゃおっと」
「あ、あかね殿!婦女子が貸しだのという言葉を使うものではありませんよ!」
 言葉遣いには人一倍煩い頼久が、あかねのちょっとした発言に慌てたが、当のあかねは、ん?と、顔だけ頼久に向けると、何事もなかったかのように、また、目の前にある料理へと目をやった。中でも小皿に盛られた玉子焼きに興味を引かれた様子で、美味しそうーと、にこにこしている。なんだか肩すかしを食ったような気分で、頼久は口をつぐんだ。
「ねえ、これ頼久さんが作ったの?」
 さっきから気になっているらしい玉子焼きを指差し、あかねが言う。
「ええ、そうですよ」
「へえー。頼久さんて、お料理できるんだ!」
 東京へ出てくる以前の暮らしで、頼久は身の回りのことは一通りできるようになっていた。別段、料理をしなくてはならない環境であったわけではないが、人間の基本のひとつとして、頼久は「食」を位置づけていたので、おのずと自らが食すもの、自らの躰を養うものを調理するという技術を身につけていた。
「できる、というほどの腕前ではありませんが、困らない程度には勉強いたしました」
「えー、すごい上手だよー。これなんか、とっても美味しそうだもん」
 あかねの言うとおり、頼久の作った玉子焼きは、見るからに美味しそうだった。周囲は濃い黄身色で、指でつつけば軽い弾力で押し返してきそうにふわりと丸い。その切り口からは、薄く延ばした生地を丁寧に、何度も折り重ねたことがうかがえる模様が見えている。ところどころに軽くついた焼き色からは、今にも甘い匂いがしそうだった。
「ちょっとだけ、味見ね〜」
「いけません!」
 あかねの指先が、玉子焼きに届く寸前、上から大きな手がぴしゃりとそれを打つ。
「っ!?」
 声も出せないほど驚いたあかねは、きゅっと唇を噛むと、自分の手を叩いた頼久の手を掴み、きっと睨みあげた。



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