「待ってください、先輩っ」
「えっ?わっ!」
「すっ、すみませんっ!」
3月14日、放課後。
スチールの下駄箱の中で上履きのかかとをきちんと揃え、その上履きと入れ替えたローファーを持ったままの手で、下駄箱の扉を閉めようとした時、譲くんはまるでその瞬間を狙ったかのように見事なタイミングで私を呼び止めた。
子供の頃から二つのことを同時にできない。
両手に荷物を持ちながら下駄箱の扉を閉め、なおかつ譲くんに「なあに?」とにっこり笑って返事をするなんてこと、できっこない。
だから私は、持っていた靴をものの見事に床に落としたし、扉を閉めかけていた手は慣性の法則にしたがって急に止めることができなかった。しかもその扉は、勢いあまって思いきり閉めてしまった反動で、譲くんを振り返ろうとしている私のこめかみあたりを直撃した。
「痛っ」
「大丈夫ですか!すみませんっ・・・ほんとにすみません、俺が急に呼んだから」
とりわけ、何かしている時に声をかけられることが苦手ときている。
だが、二つ、もしくはそれ以上のことを同時にこなせない私が、左手にカバンを持ち、右手にローファーを持つ。そんな状態で下駄箱の扉を閉めようとしたことこそが、声をかけられるとか名前を呼ばれる以前の大問題なのだ。横着しないで先に靴を履けばよかった。それなのに、譲くんは、一生懸命に頭を下げながら、しきりに謝ってる。譲くんはひとつも悪くないのに・・・でも、なんかこういうとこが譲くんらしいんだよなぁ。
「譲くんのせいじゃないって」
「いえ、でも」
「それに、もう大丈夫っていうか、そんな痛くなかったしね」
「いえ、でも・・・先輩かなり痛そうな顔してましたよ」
「そうだったかな。でもまあ、とにかく平気っぽいから気にしないでよ」
「ならいいんですけど、その、もう帰るんですか?」
「うん、今日はちょっと急いでたんだ。それより何か用があったんじゃないの?」
譲くんは、そもそも何であんなに焦って私を呼び止めたのだろう?
「ええ、この前のお返しを渡そうと思って・・・その、今日はホワイトデーですから」
そうだ。先月のバレンタインデーに私は譲くんにチョコレートを渡したんだった。
でも私は譲くんみたいに手先が器用じゃないから、手作りなんてことは夢のまた夢で、近くのケーキ屋さんで売られているチョコをプレゼントした。いつの間にか毎年恒例となってしまったそのお店のチョコを、今年は1個だけ買って渡した。バレンタインを意識するようになってからは、いつでも二人分のチョコを用意していたけど、それが今年からはひとつ。
ほんの一瞬・・・今年もいつも通りにふたつ同じ物を買って、ひとつは白龍にあげようかとも思ったりもしたけど、彼はあまり刺激のある食べ物を好まないし、それもなんだか違うような気がして、結局は譲くんの分だけ買うことにした。やっぱりあのチョコは、「先輩、俺すごい嬉しいです。ありがとうございます!」という過分な感謝の言葉と、もしもうひとつ買うならば「お前は・・・また今年もこれかよ。おい、譲、お前こいつに料理教えてやれよ」なんて憎まれ口が似合っている。
「あ、すごい嬉しい!今年も手作り・・・だよね?」
「ええ。でも実は部活が終わってからと思ってたので、まだ教室に置いたままなんです」
「そっかー。私も部活出るつもりだったんだけど、今日は早く帰ってこいって白龍がうるさくてさ。だから休ませてもらっちゃった」
「え?白龍が?」
「うん、そう。ホワイトデーだからだと思うよ」
今朝のあの白龍の態度を見れば、それは一目瞭然だ。今日は何時に帰るのか、早く帰ることはできないのかと朝から私の後ろをついて歩いていた。ちょっと意地悪して「どうして?」と訊ねても口ごもったり、「どうしてでも」と子供みたいにふくれてみたり。でもね、居間のカレンダーの14日のところに赤い丸印をつけたのが白龍だってことは、みんな知ってるんだよね、白龍以外は。きっと白龍はホワイトデーの今日のために何か計画していることがあるんだろう。内容まではさすがにわからないけど、でも・・・
「でも実は私、彼にチョコあげてないんだよね。だから何か悪いような気もするんだ」
チョコあげてないんだよね、えへへ、と笑う私に、譲くんは驚いたようでその目が少し大きくなった。そして、たいしてずれてもいないメガネの位置を直しながら、「なら、どうして?」と首をかしげてた。
「どうしてって、譲くんでしょ?教えたの」
「えっ!」
「えっ!って、だって私は教えてないしさ。それに最近の白龍『譲が・・・』って言いかけて慌ててみたり、今朝だって誰も何も聞いてないのに『譲とは話していないよ』なんて言っちゃってさ」
「教えたというか、そういうつもりじゃなかったんですけど、たまたまマシュマロの話になって」
ぽりぽりと頭を掻きながら、譲くんは照れたように話す。
「え?マシュマロ?もしかして今年ももらえたりする!?」
「あ、はい。そうです。毎年同じで芸がないんですけど、先輩美味しいって言ってくれるから」
「うん、譲くんの作るもんは何でも美味しいけどさ、あのマシュマロは格別だよ!」
「あ、ありがとうございます」
「ううん、こちらこそ!ほんと嬉しいもん」
我ながら現金な奴だ。さすがに、バレンタインデーのチョコにこめた気持ちの半分は、マシュマロを思う気持ちです、とは言えないけど、譲くんの作るあれは本当に絶品だと思う。
ふわふわと柔らかくて、口の中でとろんと蕩けて、甘くて・・・ああ。
「せ、先輩?」
「あ、あ、あ、はい」
「急いでるんでしたよね。呼び止めてしまってすみませんでした」
「あの、私もう少しくらいなら待ってられ・・・」
「いえ、きっと白龍今頃時計見ながら待ってますよ。俺のほうは帰りにでも先輩の家に寄らせてもらいますから、じゃあ」
「うん、わかった。部活頑張ってね、じゃあね」
「あ、先輩」
「ん?」
「彼とは・・・その、白龍とは上手くいってるんですか?」
一瞬言葉に詰まった。正面切って聞かれたのは初めてだ。
「うん、上手くいってるよ。笑っちゃうくらいにね」
そう答えた私の顔は笑っていなかったと思う。譲くんはそれに気が付かないでくれ、「先輩たちは本当に仲がいいんですね」と笑って言ってくれた。
白龍と私。確かに上手くいっている。
白龍は私をとても大事にしてくれて、本当に優しくて。私も白龍が無理しないようにって、いつでもそんな風に思っている。私たちを取り囲んでいるのは、暖かで清浄な気なんだと白龍がよく言うように、白龍との諍いなどありえないし、考えられない。
でも、最近思う時がある。
諍いが無いって・・・喧嘩しないことって、そんなにいいことなんだろうか。できないだけなんじゃないのかな。だとしたら少し嫌だな。
時々だけど、そんな風に思うことがある。時々だけど。
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