美しき町 3 |
「じゃあね、アリオス」 私はそう言うと、アリオスの顔も見ずに歩き出した。 ばいばい、サヨナラ、またどこかで逢える?元気でね・・・・・忘れないでね・・・・早く忘れてね・・・・いろんな言葉が頭の中に浮かんだけど、結局言えたのは「じゃあね」の一言だけ。 とぼとぼと歩きながら、私は自分がこんなに臆病だったことに少し驚いて、そして、もう二度と会えないんだな、と思ったら鼻の奥がツンとして、知らないうちに私は泣いていた。 すれ違う人が私の顔を振り返りながら見ていたから、きっと私はひどい顔をしていたんだろう。だけど、私は泣くことをやめなかった。泣くのを我慢することなんてしなかった。そんなことをしたら、今すぐにでもアリオスの宿へと駆け出してしまうに違いないから。 とにかく今はアパートに帰ろう。 帰ったら掃除をして、花を飾って、お茶を入れて飲もう。 そうよ。ただ元の生活に戻るだけの話。たった一ヶ月前に。 「おや、アンジェリーク、なんだか久しぶりだねぇ」 アパートの玄関で大家さんのオバさんが声をかけてくれた。 ひとつ前の角で涙は拭いておいたから、それほど酷い顔ではないはず。でもまだ涙が出ているような気がして、私は曖昧な返事をすると急いで階段を駆け上がった。 冷たい石の階段に靴音を響かせて3階まで登ると、一番奥が私の部屋。古ぼけたドアに鍵が上手く刺さらなくて苛々することさえも懐かしく感じる。 部屋に入ると、当たり前だけど以前と何も変わっていなくて、アリオスとの日々は「たったの一ヶ月」だということを改めて思い知らされたような感じで、また涙があふれた。 それでも部屋には薄っすらと埃がかぶっていて、私は自分の気持ちも思い切るようにおもむろに掃除を始めた。棚の上の埃を綺麗に払い、床を箒で掃いてゆく。それから水拭きをして仕上げる。 ふと時計を見ると、店に出るまでにまだ時間があったから窓も拭いておこうと布を手に取る。窓ガラスを拭きながら、見るともなく外を見ると、街は黄昏に包まれていた。 曲がり角に立っていた女の子に、どこからか男の子が駆け寄ってきて、二人は腕を組んで歩き出す。 私は、今日アリオスと一緒に歩いた道を思い浮かべた。 何を見ても、何をしてもアリオスを思う自分がここにいる。 あの時「行かないで」と言えば、アリオスは自分のもとに残ってくれたのだろうか?ほんの少し勇気を出せば、あの恋人達のように、これからも一緒に歩いていけたのだろうか?窓辺に腰掛けて、そんなことを思っている私におかまいなく、時間は黙々と時を刻んで、私を急がせた。 水道の蛇口を思いきりひねって、勢いよく水を出す。その水で何度も何度も顔を洗った。服を着替えて、軽くお化粧をする。母から貰った古い鏡の前に立って今の自分をしっかりと見つめた。 「よし、大丈夫。大丈夫だよアンジェリーク」 そう声に出して自分に言うと少し元気が出てくるから不思議だ。 一体何が大丈夫なのか自分にもわからなかったけど、私は椅子の上からバッグを取り上げると店へと向かった。 「おはようございまーす。今日もよろしくです」 裏口から厨房に入って、いつもよりも大きな声で挨拶をした。 ・・・・よし、このぶんなら大丈夫。 手早くエプロンを付けてホールに出れば、店は既にディナーのお客さんで賑わっていた。 中には見知った顔も多い。彼らから声をかけてくれることもあれば、私から挨拶することも。店のオーナー夫婦や、スタッフ、それにお客さんとの会話は思いのほか私を楽しませてくれる。しかも今日は週末だったから、旅行客も多くて、仕事は目が回るほど忙しかった。 忙しければ、忙しい方が今の私にはありがたい。考える時間は少ないほうがいいから。 ・・・・大丈夫じゃないの、アンジェ。 いったい何度目の「大丈夫」だろう。本当はちっとも大丈夫なんかじゃない。 本当に平気ならわざわざ自分に声をかけて励ます必要なんてないもの。それに、ドアが開く音にこんなに敏感になるはずなんてない。本当の私は店のドアが開く度に、胸が高鳴っていた。アリオスがドアを開けることなど、もうあるはずはないのに。 目まぐるしく働きながらも時計が気になる。時計の針を見ては、アリオスが宿を出ていく姿や、暗い道を歩いている姿を思った。 そして針が23時を指しているのを見た時、アリオスが長距離バスに乗り込む姿が頭に浮かんだ。 バイバイ、アリオス・・・・ 客のほとんどが帰り、少しずつ片付けの始まった店で、そっとアリオスにサヨナラをした。 24時、すっかり片付いた店の電気を落とすのは遅番の私の役目だった。 あとは戸締りをするだけになった店のカウンターに腰掛けて、私は自分のために淹れたコーヒーをすする。 看板を降ろした後なので、小さなランプだけを付けて、私はカウンターに頬杖を付いてぼんやり考えていた。 これまでのこと、これからのこと、自分のこと、そしてアリオスのこと。 アリオスと一緒に旅に出なかったことに後悔はない。引き止めなかったことも、愛したことも。ただ、それを伝えなかったことは、多分、忘れることはないと思った。 「さてと」 私は声を出した。いい加減に帰らなくちゃならないって。 そして、ちょうどその時、店のドアが開く音が私の耳に飛び込んだ。 アリオス・・・・・? まさか。 ・・・アリオスかもしれない、でも違うかもしれないと思うと、私は振り返ることができない。誰かが入ってきた気配はしたが、声をかけるわけでもなく、ただ靴音だけが響く。 アリオスなんかじゃなくて、泥棒かもしれない・・・・・・・そうよ、アリオスであるはずないもの。 私は急に怖くなった。何か武器になるものを探さなくては・・・ 小さな灯りの中で必死に視線を動かすと、客の忘れ物だろう、傘が一本足元に転がっていた。なるべく上半身は動かさないように、足先で、そうっと傘を引き寄せ、なんとか上手い具合に手に取る。 大丈夫、大丈夫よ、アンジェ・・・・ また私の大丈夫が始まった、と少し可笑しかったけど、笑ってる場合じゃない。私は一つ深呼吸をした。 そして、右手に傘を持ち、左手でランプを掴みあげると、私はおもむろに振り返り、相手に向かって傘の先を突き出した。 「おっと、危ねえもん持ってんなぁ」 「ア、アリオス?・・・なんで?」 ランプの灯りを少し上にむけると、そこには口の端を上げてニヤっと笑うアリオスがいた。 |
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