ドアを開ければすぐに振り向くだろうと思ったアンジェは、何故か微動だにせずに固まっていた。
最初に声をかければよかったんだろうけど、なんだかばつが悪くて何も言えなかった。
夕方、あいつと別れた後、俺はすぐに宿を引き払って、駅へと向かった。 バスの発車時間まで、だいぶ余裕があったから、繁華街を冷やかして歩くと客引きが声をかけてくる。どこかで見たような光景に苦笑しながら、適当にあしらってゆく。右を見ても、左を見ても、何もかもが同じように見える。いつか、どこかで、他の街で出会った景色に。どこにでもある景色に。
なんだかムカついた気分で、空き缶を転がしながら、俺はバス停に向かった。 ベンチに座ってバスを待つ間、途中で買ったビールを飲みながら、昼間見た湖を思い出していた。 湖だけでなく、アンジェと買い物をしたことや、立ち並ぶ家屋、暗い森の中・・・・・いろんな土地を旅してきたが、初めて見た景色だった。純粋に美しいと思った。 そんなことを考えているうちに、俺は今日見た景色が初めて見たものではないと・・・子供の頃、近所の家にいたずらをしたり、森の中を走り回ったり、内緒で買い食いをしたことを思い出した。そして、いつからか、自由に振舞うことを禁じられ、俺は常に親が雇った奴らに見られていた。
家の伝統を守るために生きることに嫌気がさして、俺は・・・旅に出たんだった。 あいつが、アンジェが今日見せてくれた景色は、俺の原点で、きっと心の奥でずっと求めていたものなんだろう。あいつの笑顔がそうだったように。
バスの運転手が怪訝な顔で俺を見ていた。 それを見送った後も、しばらくベンチに座ったままで、もう一度あたりを眺めてみた。
「やっぱり同じだな」
俺はくわえていた煙草を吐き棄て、足で踏みにじると、アンジェの店へと向かった。 遠くから店を見ると、既に電気が消えていて、誰もいないように見えた。
いなけりゃ、いないで、何度だって来るさ。
それでも店の前まできて、中を覗き込むと奥のカウンターに小さな灯りが見えて、その灯りにアンジェの栗色の髪が照らされていた。そうっとドアを開けてみるが、あいつは振り向きもしない。 別に驚かすつもりはなかった、ただ声をかけそびれちまっただけなんだ。なのにあいつは、いきなり立って振り返ると、何か尖った棒を俺に向かって突き出してきた。
「危ねぇもん持ってんな」
内心、心臓が止まるくらい焦っていたが、そんな顔できるわけないだろ?
「ア、アリオス・・・?何でここにいるの?」
あいつは、腰を抜かすほど驚いたのか、ふらつくアンジェの身体を支えながら俺は思いきって話し始めた。
アンジェと別れた後のこと、この街のこと、バス停で考えていたこと、これまでの全てを。 俺の話を黙って聞くアンジェの瞳から涙がこぼれた。俺はこいつの笑顔が好きだったけど、その涙は・・・愛しくて・・・思わず抱き寄せて唇でぬぐいとった。
「アンジェ、俺はこの町に残る」
泣きながらも訳がわからないという顔でアンジェが俺を見上げる。
「お前の夢を叶えてやるって言ってるんだ」 「どういう意味?アリオス・・・私の夢って・・・だって・・・」
アンジェの顔には、まだ笑顔が戻らない。
「アンジェ、俺は・・・・お前と暮らしていきたいんだ」
アンジェが俺の腕から自分の身体を離すと、俺を見つめてゆっくりと口を開く。
「アリオス・・・・でも・・・」
くそっ、アンジェリーク・・・どうして、どうしてイエスと言ってくれない どうして喜んでくれないんだ・・・
「・・・・嫌・・・・なのか・・・?」 「え・・・そんなことないけど、でも・・・いきなり、ねえどうして?」
どうして・・・どうしてって・・・それは・・・ああっ、何て言ったらいいんだ。混乱しきった俺の口から出たのは、たった一言だった。
「お前を・・・愛してるからだ、アンジェ」
こんなんでよかったのかよ? アンジェの顔にやっと笑みが浮かんだ。でもまだ涙が乾ききらないから泣き笑いといったところだろうか。
「・・・私もアリオスを愛してる、ずっと愛したんだよ」
愛してる・・・そうか、たった一言で、ただそれだけでよかったんだな、アンジェ。 ただ素直に自分の気持ちを伝えれば、それでよかったなんて・・・アンジェ、俺は・・・まったく気が付かなかったよ、お前に出会うまでは。
「ちっ、ブサイクな顔してんじゃねーよ」
俺は笑いながら照れ隠しに軽口を飛ばした。けど言いながら頬に暖かいものが流れてゆくのを感じていた。
「さあ、もう遅いから帰ろうよ、アリオス」 「帰る・・・って言ったって、もう宿も引き払っちまったしな、どうすっか・・・」 「大丈夫だよ」
アンジェが鍵を片手に持って、ジャラジャラと鳴らした。
「私達の部屋に帰ればいいよ」
ちょっと立て付けは悪いけどね、そう言ってウインクをする。
俺達は店の戸締りを確認すると、夜中の町を歩いた。 くだらないお喋りをしながら、一緒に歩いた。 自分の町になったこの町のあちこちに、笑い声を落としながら。 ありきたりの町に、ありきたりの暮らし。それを選んだ俺は、相変わらず何の進歩もないけど、何故か心はとても満たされていた。
昨夜、私とアリオスは派手な喧嘩をした。
二人で暮らし始めてまだ少しだというのに、既に何度目になるんだろう。口汚く怒鳴りあって、どっちも引かないで・・・でもいつものように最後にはやっぱり笑ってた。
暮らしてゆくってこういうことだなって思いながら、私はキッチンに入る。 まずは、ポットにいっぱいのお水をはり、それを火にかける。お湯が沸くまでの間、キッチンの窓からぼんやりと外を眺めてると、知らないうちに私は歌を唄っていて、ふと、アリオスを起こしてしまったかな?と横目で彼を見た。
大丈夫、眠ってるみたい。いい夢でも見てるのかな、彼の顔は笑ってる。
窓の下に視線を戻すと、歩道の脇から車が走り出し、それを見送る奥さんが手を振って、見知らぬ子供はランドセルを揺らしながら、角を曲がってゆく。
この町が束の間の眠りから目覚め、また新しい一日が動き出そうとしている。
私達もまた、始まったばかり。 そして、暮らしは続いてゆく。 この町で、この美しき町で。
キッチンではポットの蓋が音を立てて、お湯が沸いたことを私に知らせる。 さあ、アリオスを起こすためのコーヒーを淹れよう。
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