春が終わり、しかしまだ夏には早い時期に降る雨を頼久は嫌いではなかった。 梅雨と呼ばれる季節があることを、京にいた頃は知らなかったが その季節に降る雨に、花が染まってゆく姿を幾度も見てきた。 目を離した隙に色を変える姿に驚き、そして、美しいと、思った。 あかねと暮らす家の近くを小さな古い電車が走っている。 毎朝、毎夕、この電車に乗って仕事に行き、家に帰る。 昔と変わらないらしいその姿を見る度に、 あかねが懐かしがるその電車の床は木製で 雨の日には、乗降客の持つ傘の先から落ちる雫のせいで いくつもの丸い染みが作られていた。 頼久もまた、その染みを作る人間の一人。 古いとか、懐かしいとか、電車という物自体を知らなかった頼久には あかねの言う、そういった感情はまるで持ち合わせていなかったが、 ゆっくりと揺られる感覚を不思議と心地好いと感じていた。 頼久にとっては何もかもが早すぎる世界の中で、この時代遅れのスピードが ほんの一時、彼の緊張を和らげる。そして窓から見える紫陽花の花が 日々その色を変えてゆくのを見るのも楽しみのひとつだった。 今日もあいかわらず、雨が降っていた。 「遅くなってしまったな」 頼久は、出かける時、あかねに「今日は何時ごろ帰れる?」と訊かれたことを思い出していた。 取り立てて何の考えも持たずに告げた自分の言葉は思いの外、あかねを喜ばせた。 だが、予想に反して仕事は長引き、あかねに告げた時刻など、とうに過ぎてしまっている。 「待たせてしまっているだろうか・・・」 すっかり日は暮れて、駅に入る前にいつもならば見える紫陽花も、今日は 重たい雨雲のカーテンに隠されて、その可憐な薄色さえも見ることができなかった。 別に約束をしたわけではない。 待っていてくれと頼んだわけではない。 待っていると言われたわけでもない。 それでも、のんびりとした電車に苛ついてしまうのは 傘を開く、その手間さえ惜しんでしまうのは、きっと。 孤独の中で生きてゆくと決めた心の、それでも、もう半分では、ぬくもりを求めていた自分は その温かな心を、あかねが自分に半分くれたことで満たされて、幸せに達してしまったから。 元からあった心と、あかねの心、半分ずつを合わせて一つで生きることに慣れてしまったから。 もう二度と、二つに分けられることには、耐えられないのだと知ってしまったから。 だから、紫陽花の代わりに、薄色をしたあかねの傘が見えた時、 その傘の中に、ぽつんと小さな人影が見えた時、雨を蹴って走り出した。 「あかねっ」 雨を裂いて駆け寄れば、二人の距離は消え、名を告げた息が白く溶けた。 「あっ!! 頼久さんっ」 傘から顔を出し、唇を尖らしながらも、あかねが笑う。 その肩は濡れていた。雨に染まっていた。 「頼久さん、遅ーい」 「あかね、なんで?」 「なんでって・・・とりあえずおかえりが先」 「もしかして・・・迎えにきてくれたの?」 「まあね。でも、本当に遅いんだもん。何かあったのかと思った」 「えっと、ずいぶん待った?何時からここに?」 矢継ぎ早に質問を繰り返す頼久に、あかねは答えず そんなことは別にいいじゃないかと、照れを隠すように頼久に傘を差しかける。 差し出された傘を受け取りながら、いつから?と頼久が何度も訊いて ようやっと、あかねが答えた時間は、今朝、頼久が告げた時刻よりも遥かに早いものだった。 「どうして、そんな時間から・・・」 愛しさに、嬉しさに、思わず抱きしめると、雨に濡れたあかねの頬が冷たかった。 「やっ、何っ。やだっ、こんなところで」 「冷たかったでしょう?」 「えっ?」 頼久は自分の掌であかねの頬を包み、温もりを伝えた。 それから、そっと唇に触れ、口付けはもっと温かいのだと、あかねに伝え、自らも知る。 触れるだけの口付けから、ゆっくりと深く。怯えて隠れた舌を探り出して 同じだけの温もりを、半分ずつの温もりを伝え合った。 互いがすっかり温まった頃、 「っはぁぁっっ、よっ、頼久さんっ」 あかねの声で口付けは途切れた。 「しっ、信じらんないっ。信じらんないんだから」 真っ赤な顔で、息巻くあかねに、頼久はクスリと笑う。 「何がですか?」 「なっ、何がって、だからっ」 「だから?」 「人がせっかく迎えに来たのに。待ち合わせって言うと頼久さん、また気を使うし」 「そう、ですね」 「そうだよ。だから、こっそり迎えに来て、たまには待ち合わせ気分味わいたくって」 「あかねに迎えてもらえて嬉しかったですよ」 「そりゃそうでしょうよ。なら何でこんなとこでこんなことっ」 「こんなこと?」 頼久には、あかねをからかっているつもりなど、欠片もなかったが きっと自分でも知らぬうちに微笑んでしまっていたのだろう。 嬉しいことがあれば嬉しいと全身で告げる。そんなあかねの心が頼久の半分なのだから。 「なっ、何笑ってんのよ ! 嫌い嫌い嫌い。もうっ頼久さん嫌いっ」 あかねがプイと顔をそむけ、柔らかな髪がふわりと舞う。 傘から体が全部出ていってしまわないうちに、頼久はあかねの手をぎゅっと掴んだ。 ブラウスの袖口が雨でその色を濃くしていた。 小さな手の、指先も、紅く染まっていた。 嫌い、嫌い、嫌い・・・・ 嫌われては困る。 あかねを守ると誓ったのだ。 決して一人にはしないと。決して一人にはならないと。 「あかね、あなたが嫌いというのなら、私がそのぶん、あなたを好きでいます」 好きと嫌い。 嫌いのほうが多ければ、好きで埋め尽くそう。 求めて合って、与え合って、二人が一つであればそれでいいから。 「あかね」 頼久がもう一度あかねを抱きしめる。 唇を噛み締めて拗ねた顔を見せる愛しい人を抱きしめて 視線を重ね、噛まれた唇をほぐすように、唇を重ねた。 いつしか、雨は小降りになっていた。 あかねの後ろには、雨に打たれ一段と色を濃くした紫陽花の花が咲いていた。 あかねの頬と同じくらい、優しく紅い色に染まって静かに揺れていた
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