いつの間にか小さくなった蝋燭の炎は弱々しい。
あたりに曖昧な影を作ってはすぐにまたその姿を変えながら、今にも己の溶かした熱い蝋に落ちてしまいそうに揺らいでいた。

 そんな朧な灯に、頼久が息を吹きかけると、枕元の小さな炎は風の起きた方向に一瞬大きくなびき、部屋の壁に一際大きな影を伸ばした。
 そして突然に、ジュという音とともに芯は落ち、灯が消えた。
 燃え終わりの蝋燭の独特の匂いだけが頼久の鼻をつく。
 頼久は火が消えたことを確認すると、乗り出すようにしていた上半身を布団へと滑り込ませた。
 すぐ隣にある温もりを確かめながら、腕に触れる頭をそっと撫で、絡まる髪を梳いてゆく。
「神子殿……」
 その途端にあかねの髪に初めて触れた時の感触が、頼久の指に蘇えってくる。頼久は思わずその一束をきつく握り締めそうになり、慌てて指先に力をこめると、その寸前で堪えた。
 誰に咎められたわけでもない。ましてやあかねに拒否などされたわけでもない。
けれど頼久はそうしてはいけないような気がした。僅かな痛みすらあかねに与えてはならないと、そう思った。
 自分の腕の中にすっぽりと納まって眠るあかねをそっと見やれば、そこには頼久が触れる前の姿と寸分たがわぬままのあかねの姿がある。ただ規則正しく穏やかな寝息をだけを繰り返していた。
「おやすみなさい、神子殿」
 冷やさぬようにと、あかねの肩まで布団を被せると、柔らかな布の上から包み込むように頼久はその小さな体を抱きしめた。


    


 あの日、頼久はあかねと出会い、恋に落ちた。
 恋というものは知っていた。
 いずれ自分も経験するかもしれないとは、ぼんやりと感じていた。
 けれど自分がそれに落ちるまでは、恋が愛へと続くことも知らなかった。
みすぼらしいまでに夢中になり、果てには愚かな独占欲で相手を傷付け、また自分も傷付くことを厭わない、そんな感情だとは思いもしなかっただけだ。
 神子殿、あかね……あなたは私を愛してくださり、また、私もあなたを愛した。
あなたが愛しい、あなただけが愛しい。持てる感情の全てを私へと差し出してくれたあなたが。だから、今度は私があなたに。


    


 怨霊との闘いを終え平和な日々に戻った今、最早、八葉はおろか龍神の神子は京に必要のない存在になりつつあった。
 そもそも京という世界にとって必要だったのは、龍神の神子の器のみだったのだろう。
 ―― 龍神の神子
強大な力を体に受け入れ、そしてその力を最大限に発揮できる人間であれば、その存在は、何もあかねでなくともよかったのかもしれない。
 ゆえに、その力が必要とされなくなった今、器である肉体ですら京には必要のない存在になった。むしろ、その者が依然としてこの世界に存在することにより、人々の記憶や歴史に残り続けることは、あってはならないことだった。
 召喚され京の地に降り立った日……それより以前に、あかねがこの世界にいなかったのと同じように、今再び、あかねはこの世界にいてはならない存在に戻ってしまっていた。
 だが、その掟をあかねは壊した。
 元の世界に帰るはずだった、あの時、あかねは皆が止める声を押し切り、京に、頼久のもとに残ることを選んだ。
空の中から頼久を求め手を伸ばした瞬間に、あかねは、それと引き換えるかのように、自らを失った。
 あかねが頼久を求めその手を掴むと、空は引き裂かれ、目も潰すような眩い光に世界は包まれた。
その光に覆われた八葉と呼ばれた者たちは一斉に瞳を閉じたが、あかねと頼久、この二人だけが何も見えない光の中で互いを見つけ、伸ばした手をしっかりと握り締めていた。
 光の中から舞い降りてくるあかねを、頼久がその両腕でしっかりと抱きとめる。だが時を同じくして、他の八葉の中から、あかねの存在はおろか、自らの八葉としての記憶、その全てが無くなっていた。
「泰明殿、み、神子殿がっ」
 頼久は、自分の腕の中で微動だにしないあかねを、すぐ背後にいた泰明に見せようと声を上げた。
だが頼久の思いとは裏腹に、泰明はちらりと一瞥をくれただけで、すぐに顔を背けるとそのまま何処かへ去っていった。
「や、泰明殿っ、イノリっ、神子殿が」
 頼久には目の前の光景が信じられなかった。
 これまで共に闘っていたはずの仲間はみな、頼久が声をかけると初めて会ったような訝しげな視線を向け、無言で去ってゆく。まるで自分が世界中から騙されているように思えて仕方ない。
 泰明だけではない。イノリも鷹通も……一人、二人とこの場から立ち去っていってしまう。そして最も頼れたであろう天真たちは、とうに光の中へと消え、既にこの世界には存在していなかった。
「神子殿……」
 頼久はあかねを抱いたまま、膝をつくとその場に座り込んだ。
 あかねの顔色は決して悪くはない。頼久にはあかねがただ眠っているだけとも思えなくもなかった。
 だが腕の中の温もりに呼びかけるが、未だ何の反応もないことが気にかかる。ずっとこのままなのでは、という不安もぬぐいきれない。
 いつまでもこうして考えこんでいるわけにもいかず、頼久はあかねを抱き上げると、その体を守るように、できるだけ揺らさぬよう、自分の邸へと連れ帰った。
「帰りましょう、神子殿」
 何の役にも立たなくなったあかねの肉体を引き取っても、この京の誰も文句を言う者はおらず、誰も何も思いもしなかった。
 だが頼久の邸に仕える者達はそうではない。


    


 あかねを邸に連れて戻ってきた頼久を見た彼等は、あかねを異質の侵入者としてしか見ることができずに、あからさまに非難の声をあげた。
頼久はその声を一喝すると、遠慮がちではあるが不躾な視線を送ってくる彼等の間を割り入るようにして、奥の部屋へと進んだ。部屋に落ちつくと、まずは自ら夜具を整え、その上にあかねをそっと寝かせた。
 頼久はあかねの脇に座りながら、しばらくその顔を眺めていた。
 それからようやく思いついたように、手ぬぐいを水に浸してきつく絞り、泥で汚れてしまった頬を傷つけないように慎重に拭いた。
 額に張り付いた髪を指でわけるように耳へと向けて撫で付ける。いつもならばピンと跳ねる毛先が、今日はその力も持たず頼久の指に流されるままに耳の後ろにかかって素直に止まった。
 いつしか日は翳り、外を見るたびに闇はその色を濃くしてゆく。頼久は、ため息をひとつ落とすと、立ち上がり、小さな明かりを灯した。
 いくら時間が経とうと、頼久はあかねの傍を離れるつもりはなかった。あかねの瞳が開くのを見るまで、いつまでだってずっと。
 仄かに揺れる灯の中のあかねの顔は、頼久の腕に抱きとめられた時のまま何ひとつ変化がない。
 やがて再び、空の色が薄くなり、生あるもの全てが目覚めを迎える頃、あかねの顔がわずかに左右へと動き、その口元からは先ほどまでの寝息とは違う声が小さく漏れた。
「……」
「みっ、神子殿っ」
 頼久の目が大きく見開かれた。
 あかねの瞳もまた、ゆっくりと、だが確実に開かれてゆく。
「頼、久さん……」
 あかねの唇が頼久の名を告げる。
「神子殿、お気づきになられたのですね」
 頼久は思わずあかねの正面へと身を乗り出した。
 そして叫ぶような自分の声が聞こえたその瞬間に頼久は気付いた。

 あかねが自分を見ていないことに。
 あかねが何も見ていないことに。
 あかねは目覚めてもなお、闇の中にいた。


    


「頼久さん、頼久さん……」
 あかねが自分を見ていないことに頼久はすぐに気付いた。
 そして、その言葉ひとつしか知らないように、自分の名前を繰り返すあかねを、知らぬ間にきつく抱きしめていた。
「神子殿、ご安心を。大丈夫です頼久はここにおります」
 頼久の声と自分に回された腕に安心したのか、あかねはようやく口を閉じた。だが焦点の合わない瞳はそのままで、その言葉の意味を理解しているとは到底思えなかった。
 頼久はゆっくりと何度も何度もあかねに向かって話しかける。
 依然としてあかねから返事が返ってくることはなかった。
何を聞こうと満足な返事もできないあかねだが、かろうじて頼久の存在だけはわかるのか、頼久があかねの名を呼べば、うっすらと笑みを浮かべ、その腕に体を預けてゆく。
 あかねを抱き寄せ、しっかりと自分の腕で包み込むと頼久は邸を後にした。
 ―― 頼れるのは泰明しかいないと思った。
 今や、見知らぬ者同士になってしまったとはいえ、泰明の陰陽師としての才覚に頼るしかない。そう思った。


    


「……」
 泰明の瞳が遠くを見つめている。
 そこには片腕に少女を抱え、もう片腕だけで馬を操りながら息を切らして自分のもとへと駆けてくる頼久の姿があった。
 泰明はその姿に格別驚いた様子もなく、いつもと変わらず冷たいとさえ感じる顔で二人を迎えた。
「泰明殿、ご無礼をお許しください」
 馬から降りると頼久は深々と頭を下げた。
 泰明に相手にされぬことなど覚悟のうえ。
だが、何を言われようと、素気無く断られようと決してあきらめることはできない。
「泰明殿っ、どうか、どうか教えていただきたい」
 だが頼久の決意とは裏腹に、泰明から返ってきた言葉は頼久を驚かせ、同時に安堵させるものでもあった。
「お前達が来ることはわかっていた。で、何が知りたい。その女のことか」
 頼久は一瞬、泰明が何もかもわかっているかもしれない、自分達のことを覚えているのかもしれないという、淡い期待を抱いた。
「ええ、実はそうなのです。神子殿が……」
「その女の名は、神子、というのか」
 泰明のあかねへと向けられた視線。初めての人間に向けるその表情に頼久は落胆してゆく。
 やはり泰明は覚えてはいなかった。
 昨日、突然に見知らぬ者になった時から、何ひとつ現実は変わってはいなかった。そして頼久は目の前の、その事実を受け入れるしかないのだ。
 泰明があかねへと近づいてゆく。
「神子、か」
 やはりそうか、と誰に言うでもなく呟くと、再び頼久に向かって話しはじめた。
「この女は無だ」
「えっ」
「聞こえなかったのか?無だ。何もかも失っている……何も無いのだ」
 頼久は、無という、思いもしない泰明の言葉に反発を覚えた。決して認めたくなかったのだ。
「無……っ、ですがっ、つい昨日まで神子殿は、それに今朝も、つい先刻だって、神子殿は私の名を」
 頼久はこれまでの出来事を矢継ぎ早に話し始めた。
 あかねがこの世界へ来たこと。八葉として出会ったこと。
そしてその八葉の中に、泰明もおり共に闘ったこと……そして、あかねが元の世界には戻らず自分を選んでくれたこと。
 信じてもらえるとは思えなかった。
 到底信じられる話などではない。
 あかねのみならず、自分の状態でさえ疑われても仕方のない話だと自分で言いながらそう思う。
 しかし、泰明は途中で言葉を挟むこともなく、頼久の話が終わるまでじっと黙ったまま目を閉じて聞いていた。
「それで全てか?」
「はい」
 泰明は頼久の話が終わったことを確認すると、「多分」と前置きをしてから語り出した。
「お前の話が本当ならば、この女は全てを無くしたわけではないのだろう」
訳がわからないといった顔の頼久には構わず、泰明は淡々と語り続ける。

 龍神の力は計り知れない。
神子 ―― この、あかねという一人の人間に命が残されたことすら泰明には不可解な出来事でしかない。けれどそれはこの世界を救った龍神の神子への恩赦なのかもしれないとも思う。
 そして、あかねが頼久の名を呼ぶことは何よりも信じがたい事実だった。他の誰の言葉にも反応せず、他の何もかもを失ってもなお頼久のことだけは残している。泰明は、目の前の少女のその事実に驚愕していた。
「龍神といえども、そこまでは力が及ばなかったか」
「それは……どういうことでしょうか?」
 頼久が要領を得ないままに訊ねる。
「先ほど、この女……神子を無だと私は言った」
「ええ、ですがっ」
「そうだ。私の思う無ではなかったようだ」
「ならばっ」
「人間は時に……何にも、誰にもかなわないほどの強靭さを持つ。わかるか?」
「はい」
 突然に語られ始めた泰明の話。
頼久はその真意を理解しようと懸命に聞いた。一語一句逃すまいと。
「この女……神子といったな」
「ええ」
「神子は、全てを失ったというよりも、壊されたというべきかもしれぬ。だがどうしても失えないもの、それがお前だったのだろう」
「ですが、神子殿は私の名を呼ぶだけです。ただ、それだけなのです」
 口を挟んだ頼久に冷ややかな視線を落としながらも、泰明は自分の考を説き続けた。
「だから壊されたと言っただろう。神子は全てを壊されたのだ。だがどうしても壊されたくなかったもの、それを魂の奥に残した……龍神の力もそこまでは及ばなかったと、私は言ったはずだ。わからないか?神子に残ったもの、それはお前の記憶ではない。お前の声でも姿かたちでもない。お前という存在、存在なのだ。ただそれだけだ。そして、それだけしか無いのだ」
「では、これからずっと……このままなのでしょうか」
「ああ、多分そうであろう」
「ですがっ、どうしてっ」
 冷静を保とうとしていた頼久は、泰明の「多分、そうだ」というあっけない言葉に簡単にそれを失い、思わず取り縋るように泰明の肩を強く揺さぶる。
だが泰明は表情も変えぬまま一つため息をつくと、わからない、そう答えた。
「人間はわからないことばかりだ。私にはな。だが、神子というこの女の気は非常に安定している」
「安定……」
「ああ、そうだ。この女には迷いが見えない。人間とは、えてして自らが望んだ結果を受け入れた時、迷いが消えるものだ」
「神子殿が……望んだ」
「ああ、それだけお前を求める気の力が強かったということだろう。いずれにしても人間の心はわからぬが」
 泰明にそう言い切られ、頼久はその言葉を信じるしかなかった。
 この名高き陰陽師が嘘を言うなどとは思えなかったし、あかねの状態は自分が一番近くで見て、一番よくわかっている。
 泰明はただ目の前の現実を言葉にして頼久に伝えてくれただけなのだ。
「よく、……わかりました。お手数をおかけして申し訳ありませんでした」
 頼久が頭を下げ、その場から去ろうとあかねを抱きかかえた時、ふいに泰明が声をかけた。
「頼久、お前は頼久という名だったな、確か」
「や、泰明殿、もしや私をご存知では。それとも思い出されましたか?」
 頼久が鋭い視線を泰明に向ける。泰明はその視線から顔をそらさなかった。
 互いに譲らない視線がじりじりと焼けるように熱を持ってゆく。
「頼久さん……頼久さん」
「神子殿」
 不意に、それまで黙ったまま頼久の後ろに隠れるようにしていたあかねが突然頼久の名を呼んだ。
 その声に弾かれるように泰明の顔がほんの一瞬緩んだ。
「頼久か。お前とはどこかで会ったことがあるような気がする」
「えっ」
「人間ならばそう言うのかもしれぬな。だが私は違う。人間は感情を持つ。しかし私はその類を持ち合わせてはいない」
「……そうですか。失礼をいたしました」
 頼久は泰明に一礼し、あかねを抱き上げると、馬に跨りもと来た道を再び戻っていった。
―― 人間は感情を持つ。しかし私はその類を持ち合わせてはいない ――
「そのどちらが良いのかは誰にもわからぬが」
 微かに笑みが含まれたような泰明の声が背中に届いたが、頼久は振り返ることをしなかった。
 
頼久は、ただ腕の中のあかねの現実を思っていた。

 ぼんやりと自分を見上げる目には何も映らないということ。
 ひとの言葉に何の反応もしないということ。
 姿と命だけを残して、心を失ってしまったということ。
 そして、自分だけを失わずにいてくれたこと。
 その全てを受け入れようと、頼久は自分の邸には戻らずにその脚で京の外れに一軒の家を構えた。
 その日から、頼久とあかねの、二人だけの日常がはじまった。


    


「神子殿、おはようございます」
 朝、目覚めると一番最初に、あかねに声をかける。
 ぼんやりとした表情のまま、あかねは目を覚ます。
何も言わず、何も変えず。それでも頼久は声をかけ続けた。
 あかねとの暮らしは、まるで赤子を育てているかのようだ。
 食事の支度をし、それをあかねの口へと運ぶ。
 本能的に口の中に入ったものを咀嚼し飲み込んではゆくが、あかね自身に箸を持たせれば、それはすぐに指から落ちてしまう。
「いいのですよ、神子殿」
 頼久は箸を拾い上げる。
 そしてあかねの口元に零れたものを吸い取るように自分の唇を近づけて、そっと重ねる。それでも動かない唇に。
 あかねと出会ってからの日々を思い起こせば、こんなに近くにいたことはなかったと思う。
 あかねと共に、愛する者どうし、寄り添うように生きていきたい。ずっとそう思っていた。その願いが今叶えられている。

 良く晴れた日中は、あかねを縁側に座らせて、自分もその隣に座ると、とりとめのない話をしながら、時を過ごす。
 返事が返ってくることなどない。
 ただ時折あかねの気分が良い日はその顔に薄っすらと微笑みが浮かぶときもある。
 そんな時、頼久は嬉しさのあまりにあかねの体を抱き寄せるが「んっ」と小さな吐息が聞こえるだけで頼久の体にあかねの腕が回されることはなかった。
 少しでも傍を離れれば、すぐに「頼久さん」と大切なものを失くしたように自分の名を呼ぶあかねに、温かい想いが頼久の心に芽生えることもある。
 だが、そんな思いとは裏腹に、あまりにも一方的な意思の疎通を目の当たりすると、胸にこみ上げてくる思いがあるのも事実で、時にはそんな思いをどうすることもできずに、吐き出してしまいたくなる日もあった。
 本当に自分があかねの中に存在しているのか疑ってしまうことさえある。
そんな時、頼久は、あかねが何も見えないと知りつつも、あかねから隠れた場所で、声を立てぬよう己の拳を噛みながら泣いた。
 それでも今のこの生活を頼久は辞めようとはしなかった。
 僅かながらも蓄えがある間はこのまま、常にあかねの傍にいる、この暮らしを続けていこうと思っていた。
 そんな日常が繰り返され、気が付けば夏は終わっていた。


    


「疲れましたか?」
 寝床を整えながら、夜毎あかねに話しかける。
 きちんと布団をかけ、あかねが目を閉じたのを見届けると頼久もすぐ隣にひいた布団に横たわる。
 小さな灯のもとで、仰向けになったあかねの胸元がわずかに上下しているのが見えた。
「神子殿……」
 その姿に思わず見とれた。
 見つめながら頼久は熱を飲み下してゆく。
 もう、肌を重ねることはないのだろうか。
 愛し合い、体に染み込んだ熱は、あかねの全てを記憶しているのに。触れたときのあかねの温もりや、唇にかかる吐息、食い込む爪の痛みまでも。
 忘れたりしない。
 忘れられるわけなどない。
 今もあかねを愛している。
 全てを失ってもなお、自分の名を呼んでくれるあかねを。
 ―― 今、この時に、あかねの中に確かに存在したいと切に願った。
頼久は、ゆっくりとあかねへと顔を近づける。
 幾度も重ねた唇を確認するように、その上へと重ねてゆく。
 そっと舌を出し、あかねの上唇をなぞりながら隙間を割っていった。いつもそうしていたように。いつもそうしてくれたように。そしておもむろに口の中へと舌を挿し入れると深く深く唇を重ねた。
「ん……」
 重ねたときと同じように、またゆっくりと唇を離すと、そこに透明な糸がかかっていた。
 細い糸が二人を繋いでいた。
「神子殿、愛しています。心から永遠に……」
 たとえ聞こえなくとも、あかねの魂に届くことを願って頼久は告白を続ける。
 零れ落ちる涙をぬぐいもせずに、あかねの胸へと顔を寄せた。
「神子殿、ずっとあなたの傍に……」
 愛しい人の胸に埋めてする呼吸は、懐かしい匂いがした。あかねの匂いだった。それは、体中にあかねが入り込み、満たされるような錯覚を頼久に与えた。
「神子殿、あなたは私のもとに残ってくれた。私を、愛してくれた」
 あかねの指。
 あかねの唇。
 あかねの温度。
 その全てを体が覚えている。
 あかねだけが自分に感情を与えてくれる。
 考えることはすべてあかねのこと。それだけだ。
「頼久さん……」
 あかねの声に頼久ははっとして顔をあげた。
 あかねの指がわずかに動いて頼久の頬の雫に触れていた。
「神子殿、すみません泣いたりして」
 そうだ、あかねもまた自分だけを求め、自分だけをその心に残して生きていてくれる。自分の名を呼び続けてくれる。
 たとえそこにあかねの意思はなくとも。
全てを失った後に残ったものが自分だけだったことに、頼久はたまらない喜びを感じずにはいられなかった。

 ―― 病めるときも健やかなるときも……

 以前、あかねが言った言葉を思い出していた。
 そう言って愛を誓うのだと、あかねが教えてくれたのだった。

「神子殿、病めるときも健やかなるときも、あなただけを……」

 あかねの中には、自分以外の何も存在せず、自分もまたあかねだけ。
 互いにたった一人のひとなのだ。
痛みも、涙も、光も、喜びも、そして悲しみでさえも。
 全ては唯一のひとのために。
 神子殿、時を越えて巡り会えた唯一のひと。
 この事実を幸せ以外の何と言えば許されるのだろう。
 それなのに。これ以上何を望むというのか。
 己を浅ましいと思う。
 ……けれど涙は止まらなかった。

 あかねの肩まで布団を被せ、柔らかな布の上から包み込むようにその小さな体を抱きしめながら、頼久はもうひとつ、あかねの言葉を思い出していた。
 あかねがいつか話してくれた物語は、口づけで目覚める異国の童話だった。そしてそれが幸せに終わる話だったことを頼久は思い出した。
 頼久はもう一度あかねに顔を近づけると、涙ごと、そっと口づけた。与えるように、そして求めるように。


 ゆらゆらと揺れる灯が、あかねを抱いた頼久を壁に映している。影の中の二人に境目はなく、ただ溶け合うように寄り添っていた。
 たった二人。
 この小さな世界の住人はたった二人きりだった。

―― 終