| 新しい日々に |
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「それじゃあ頼久さん、良いお年を」 「ええ、あかね殿も、良いお年を」 一年に一度だけ、交わされる言葉。 毎年繰り返される、その言葉を互いに贈る。 たとえ数時間後には「おめでとう」と、再びあかねの笑顔に会えると、わかってはいても。それでも、ありったけの思いを込めて言う。 「良いお年をお迎えください」 ただの年末の挨拶として、気軽に使われる言葉。この言の葉に人はみな、気付かぬうちに深い愛情を抱いていると頼久が思ったのは、この世界に来てから、何度目の年の瀬だっただろうか。 良いお年を、と誰かに言うたびに、人は己の一年をふり返り、流れた時間の分だけこびり付いた心の錆を少しずつ払い落としてゆく。生きていれば、誰しも錆がつくものなのだ。そして、その錆は、生きている者に与えられる祝福でもあり「それでも、いい一年だった」と過ぎた時間を愛しく思い、これから来たる、まだ見知らぬ時間に果てしない夢を馳せる。 ある年、頼久はあかねがくれたその言葉に、何故だか不意に驚いた。まるで肌に直接触れるような、何もかも包み込むような温もりを感じた。これまでにも、何度か繰り返し交わしていた挨拶だというのに。 だが、その思いをすぐに言葉にはできず、「はい」と頷いてから軽く笑うと、頼久は、あたりまえのように、あかねの後姿を見送った。その後、一人歩く街で、すれ違う人すべてに「良いお年を」と、「どうか、素晴らしい年を」と思わずにはいられない自分になっていることに気づいた。 こんなふうに感じたのは初めてのことだった。 現代に来る前も、そして来てからも。 ただ、あかねと共にいたくて現代に来た。 ただ、あかねを愛していたから。 命の続く限り、あかねの傍で、あかねを守ると誓ったから。 けれど、それだけではないことを知った。 愛する人と共に見つめる時間があることを。 「良いお年を」 この世界に来て初めて知った言葉を、あたりまえに使えるようになった今。だからこそ、あかねと共に新しい一年を迎えたい。 振り返れば、遠くにあかねの髪が揺れていた。風に舞う、柔らかな髪の毛を見失わぬように、頼久は急ぎ足であかねを追いかける。だが、それでも足りなくて、思わず走り出した。 「あかね殿っ」 大きな声で叫んでいた。 心の声は、頼久の思う以上に強かった。 自分を呼ぶ声に立ち止まったあかねに、頼久は息を切らして駆け寄ってゆく。 「あかね殿っ」 「ど、どうしたの?頼久さん」 頼久の剣幕に驚いたあかねは、訳がわからないといった顔で頼久をじっと見上げて、もう一度「どうしたの?」と訊いた。 「あかね殿」 「ん?ほんと、どうしたの?頼久さん」 「あかね殿、その…良い年を」 「え?」 「良い年を迎えましょう」 異なる世界に生まれ、そして今、時を越えて出会えた愛しい人。こんな自分の運命を嬉しく思う。そして何より、あかねのために生きたいと思う。 ずっと、いつまでも、永遠に守ってゆけるように。 「あかね殿、これからも」 頼久があかねを胸に抱く。向かい合ったままの二人の肌が重なる。 「いえ、これからは一緒に、新しい一年を迎えて欲しいのです。これからずっと一緒に」 頼久にあかねの返事は聞こえてくることはなく、途端に不安に見舞われる。けれど、触れ合う肌の隙間から温かな雫が流れ落ち、不意に体を離すと、自分を見上げる笑顔が、あかねの言葉以上の答えをくれていた。 「あかね殿、愛しています」 ひとつ、ふたつと雫が流れた。 錆びついた心も雫とともに流れてしまうだろう。 そうして新しく、より強い、深い心へと、生まれ変わってゆく。 今、頼久の目の前には、湯気の上がる二つのコーヒーカップが並んでいる。 「ねえ、隣に座っていい?」 ソファーに腰掛ける頼久の背後から、あかねの腕が伸びて、頼久を軽く抱きしめると、スルリと落ちた長い髪の毛先が頼久の手の甲をくすぐった。 頼久の返事も待たずに、あかねは、ソファーの背を乗り越えると、勢いよく座り込んで、それから頼久の顔を覗きこむようにして、小さなキスをひとつ。 「あ、あかね殿」 「アハハ。今年最後のキスかもねー」 赤くなる頼久を尻目に、あかねは体を頼久に預けてゆっくりとカップを口に運んでいた。頼久は、先ほどから肌をくすぐる、あかねの髪を一束掴むと、そっと唇を添え、長く伸びた髪の毛に、自分達が過ごしてきた時を愛しく思った。 「良いお年を」 それは、年末の別れ際の挨拶だった。共に暮らし始めた今、もうサヨナラする時間は二人には必要なくて別れ際なんて存在しはしない。 けれど、それでもきっと言うのだろう。 新しい一年が、素晴らしい年になるように。 来年もまた、あなたと共にいられるように。 あなたを愛していられるように。 きっと、来年まで続くキスを交わしながら。 「良いお年をお迎えください」と。 |
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| [了 / 新しい日々に] |
| みなさまも良いお年をお迎えください 2002年12月末 |