指先から・・・ |
つい先刻まで茜色に染まっていた見事な夕焼け空は既にその色を潜めて、頭上に広がる空は既に菫色がかっていた。 細長い雲が流れては影を落とし、それは足元から長く伸びる。 あかねの豊かな表情を持つ黒目がちな瞳が左右に動いて、そして頼久の顔で留まる。 鬱陶しいのだろう、頬に落ちる癖のない髪を細い指で掬っては何度となく耳にかけるが、まだ短かすぎるそれはまたすぐにスルリと滑り落ち、まるで今にも喋り出しそうな毛先がその度につんと跳ねた。 それが恥ずかしいのか、あかねはしきりに指で髪に触れては「もうっ」と誰に言うでもなく小さな声を出し、頼久と目があった瞬間にその口元がふっと緩むと、風の流れが変わった。 自分をじっと見上げる瞳に、頼久はあかねが発するであろう言葉を頭に浮かべ、「終わった」と思う。 何を期待をしていた訳でもないのに諦めることを自身に強いた。 「お疲れ様でした」 あかねのその一言に頼久はこの場から去ることを選ぶ。 たとえ夜中の警護の任がなかったとしても、まだ帰らなければならないという時間でもない。いつものように少し照れながら、それでも真剣にあかねを見つめて「もう少し」と、「あなたといたい」とそう正直に告げることができたならば、あかねはこの上ない笑顔で頼久を受け入れるだろう。 だが頼久はいつでも、あかねの前から去ることを選ぶ。否、受け入れられることを自ら拒否する。 「いえ、私などなにも・・・神子殿のご活躍があったからこそ無事に封印することができたのです」 「そ、そんなことないですよ、だって頼久さんがいなかったら私・・・」 「だって、私・・・」 恥ずかしそうに俯くあかねの顔に、再びバサっと髪が落ちその表情を隠した。 髪の隙間から時折見える頬は薄っすらと紅色に染まり、ほんの少し尖った小さな唇は何か言いたげに、でも何を言っていいのかわからないといった揺れる思いを伝えていた。 「・・・神子殿?」 体を屈めて覗き込もうとする頼久の袖は、あかねの小さな手に掴まれ腰の横に引き戻される。 その手には強引さの欠片すらなかったが、白くなっている指先にあかねの頼久に対する強い想いを見て取れた。 「あ、あのね、頼久さん・・・あの・・明日も一緒に・・・」 袖を握る指先の僅かな震えが懸命に紡ぎ出す声に共鳴し、頼久の耳へ全身へと伝わってその心を軋ませた。 ---やはり自分は鍛錬が足りないのだ・・・ 主であるあかねへの想いは、日に日に愛しさばかりが増す。とうに限界など容易に超えてしまうほどに高まっている。 それを思い知るのは、何もこんな風に二人きりになれた時だけではなかった。 闘いの合間、空を舞う花びらを追いかけるあかねの柔らかな髪が風に揺れる姿に。背に視線を感じて振り返ると春の日差しのような眼差しを携えたあかねが首をかしげる様子に。そしてそっと差し出す手・・・小さな、それでいてとても温かい手。その指先が触れ、たった一点であろうとも繋がっているのだと実感する瞬間に・・・頼久は眩暈を覚えながらも、抱いてしまいそうになる。 あかねと共にいるだけで、体はいうことをきいてくれない。確かに己のものであるはずの手を脚を支配することができずに、その代わりに唇を、血が滲むほどに噛み締めることで、その痛みにようやく自分を保っていた。 そして今も、少しでも気を抜けばすぐに頼久の心を裏切るだろう己の肉体が憎らしく、いっそ斬ってしまえたらとすら思う。 ---このままでは神子殿を傷つけてしまう。 頼久は噛み締めていた唇をそっと開き、骨の軋む音が出そうなほどに全身に力を込めると、ようやく微笑んで見せた。 「ええ、喜んでお供いたします。……神子殿、この頼久いかなる時もお傍におりますゆえどうか御安心ください」 以前の姿を知っている者が見れば、驚きに値するほどの笑顔をあかねに向ける頼久。けれど、そんな顔をさせているのが自分の存在の所為だと、あかねは知らない。 ただ、自分に向けられる優しい眼差しが嬉しくて、暖かな声にくすぐられて、無邪気な顔で止めを刺す。 「頼久さんっ、大好きですっ」 そう言って駆け出していったあかねの後姿と、御簾が仕切った距離に頼久は眉をしかめた。 ---神子殿…… 見知らずにいたあなたを今は心から愛し、あなたを守りたいと願う。 ですが、あなたの何気ない振る舞いに目が眩んで空に押しつぶされそうなる。 あなたの決して嘘ではない言葉に、全てを曝け出してしまいそうになる。 ええ、決して嘘ではない言葉。そう、あなたは嘘などつかない。 むしろ嘘を付いているのは自分のほうだ。 それでも、嘘を付いてでも・・・ 神子殿、あなたを決して汚しはしない。あなたを、傷つけないと誓う。 |
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「出て行けっ」 頼久の怒声と共に障子が開くと、そこから転がるように一人の女が飛び出してきた。 帯は緩みきり胸元は肌蹴て、最早ただ布を巻きつけただけの状態で冷え切った廊下に呆然と座り込む。 しばらくそうしてぼんやりと座っていたが、思い立ったように襟元を合わせ立ち上がると、障子の向こうにいるであろう頼久に、あたかも訴えかけるように泣き出して、それでも頼久が怖いのか障子を開けようとはせずにその場で叫んだ。 「私が何をしたって言うの?そんな風にするなら、最初から、その神子とか言う人と……」 女がそこまで言った時、まるで風を切るように音もなく障子が開いた。 「・・・・・・」 自分を睨みつける頼久の手が腰の太刀に触れた途端、女は声を失いその場に立ち尽くしただその手を凝視した。 「帰れと言ったはずだが」 頼久の声には何の表情もない。 それなのに、いやその所為なのか酷く冷淡な響きを聞く者に与えた。 泣きながら逃げるように飛び出してゆく女に、頼久は全てを吐き出すような大きなため息を付いた。 抱きたいから抱いた。 抱かれたいと言ったから抱いてやった。 誘われたのか、それとも己が誘ったのか、頼久はそれすらも覚えていなかった。 ただの戯れのつもりで、爪先で軽く蹴った小石が予想もしないほどの加速を増してゆくように、頼久もまた女の柔肌に溺れ、貪り、内側に溜め込んだ熱をその体に食い込ませていった。 女の華奢な両手首を片手で掴み、着物も脱がせぬまま乱暴に口づけては所かまわず印を刻む。 力の抜けた体を壁へと押し付け片足を持ち上げると露わになったそこは自分を待ち望むようにも見え、頼久は何の前触れもなく己を挿し込んだ。そこは痛みのせいか乾いた悲鳴を上げ続けたが、それはいつしか湿度を含み頼久を締め上げ、頼久の逞しい背中に手を回しては嬌声を上げた。 ……っ、神子殿っ きつく瞼を閉じた瞬間、頼久はあかねを想う。 自分を求め、喘ぎ、すすり泣いては、懸命に腕を伸ばしてくるあかねの姿が瞼の裏に浮かんだ。その指先が肩に食い込む様が見えるようだった。 ……神子殿っ……ああ、神子殿。 頼久さん・・・と自分の名を告げる唇、悦びに紅く染まってゆく肌、額に滲む汗、張り付く一筋の髪・・・ そしてその愛しい体を、躊躇なく汚してゆく自分の姿までもが見え、狂おしいほどの甘い罪に背筋が粟立った。 だが目を開ければ、そこに見えるのは見知らぬ女の満足気な顔。止むことを知らない嬌声に、胃袋を鷲掴みにされるようで、真実、強烈な吐き気に苛まれているのに、込み上げる胃液とは裏腹に未だ昂ぶる自身に苛立つ。 頼久は女の体を引き寄せると多少の加減さえせずに己の欲望を吐き出すために打ち付けた。 腕の中で跳ね上がる女の、熱を込めて見つめ返してくる瞳を閉ざすため、息の上がった声で名を呼ぼうとする口を塞ぐために、一層の激しさで突き上げると今にも達してしまいそうな女の唇が酸素を求めて魚のように開閉する。 「あっ、ああっ……くっっ」 やがて絶頂を迎える瞬間、その嬌声ははっきりとした言葉になって頼久に届いた。 「あぁっ、頼久さ…ん……」 刹那、頼久の動きが止まる。 だが、その名を呼ぶ声は一向に止む気配すら見せずに部屋中に響き続けては彼に襲いかかってくる。 「黙れっ」 それでも止まぬ声に、体を突き放し床へと押し倒すと細い首元に手をあて顔を掴んで揺すぶった。 「黙れ……」 大きくはない頼久の声は、その分だけ、冷酷で狂気に満ちている。 体に張り付いた汗が瞬時に冷たくなり女の体は震えた。再び口を開こうとするがそれは声にはならずにただ瞳だけで頼久の情けを求める。 先ほどまでの熱が嘘のように消えて今はピンと張り詰めた空気だけが流れる室内に、女より先に頼久の声が落ちた。 「……出て行け」 唐突に告げられたその言葉の意味を解さない女は呆然とし、それでもまだ頼久に縋るように手を伸ばす。 頼久はあからさまに舌打ちをしてその手を振り払うと、女の着崩れた着物の襟ごとその体を立ち上がらせ障子を開け放ち、「出て行けっ」そう怒鳴ると、たった一枚の障子を閉めることで全てを己の中から排除した。 先ほどの自分の怒声が、未だ耳の奥で響いていた。 上半身を肌蹴たまま寝乱れることのなかった布団の上に脚を投げ出して座り込む。 神子殿でなければ何の意味もないというのに、何度同じことを繰り返すのだろうか。 頼久は心に渦巻く、名前の付くことのない感情を持て余しては、ぼんやりとした視線を宙に彷徨わせた。 障子の隙間から吹き込む冷たい風が火照る頬に妙に心地よい。 「神子殿……」 愛しい名前がふと口をついて出る。 ずっと思い出したかった言葉を教えられた気がした。 誰かに肩を揺すぶられているような錯覚に、頼久は立ち上がると足早に邸の裏手に回り、井戸から汲み上げた冷水を狂ったように浴び続ける。 神子殿、神子殿っ…… ただ無性にあなたに会いたい、あなたは許してくれるだろうか。 それともあなたは私を追放する? それでもいい、あなたに会いたい、そして……あなたに触れたい。 神子殿、どうか私を許さずに、どうかその手で清めて下さい。 |
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静まり返った闇の中を歩いてゆく。 京の町に頼久の足音が響いていた。 月が出ているとはいえ、その光は弱々しくて、まるで頼りにはならない。 だが頼久は迷うことなく道を進む。ただあかねに会うために。ただあかねを守りたいと願って真っ直ぐに歩き続ける。 だけど本当は、己の罪をぶちまけ、その上で許しを請いたいと切望していることに気付きもせずに歩き続けた。 門からの長い道を一歩一歩踏みしめて、ズズっと音を立てて、玉砂利へと跪く。 御簾に仕切られたあかねの部屋の下までくるとゆらりと揺れる御簾から灯が垣間見え 頼んだわけでもないのに部屋の主がまだ眠っていないことを教えてくれた。 「神子殿……」 頼久の視線の先に、人の動く気配がした。同時にあかねの細い声が聞こえてくる。 「あ、あの……もしかして頼久さん?」 「こんな夜分に申し訳ございません」 頼久の声に安心したあかねは夜着のまま飛び出して頼久の手をとった。 その手は真白く、自分のそれよりもはるかに小さいはずなのに、頼久の冷えた手をしっかりと包み込んで、触れられた箇所から温もりが広がってゆき、頼久は自分があかねの熱を奪い取っているように感じていた。 「頼久さん、どうしたんですか?」 「いえ……」 薄明るい月明かりの中、自分を見上げるあかねの顔にはしっかりとした微笑が浮かんでいて、ただそのことに頼久は満足し、そして安堵する。 「いえ、って……本当にどうしたんですか?」 「近くを通りかかって……その、神子殿が心配になったものですから」 一瞬にして発せられたその言葉に、自分でもよくもこんな嘘が付けたものだと頼久は己を嘲う。 「え……」 「本当に申し訳ありません、神子殿、こんな夜分に」 だが、あかねの返事は頼久の予想通りに彼を温かく包み込むものだった。 「ううん、まだ寝てなかったし。それに一日に二回も頼久さんに会えて……その……嬉しいです」 神子殿、私の嘘の中であなたは微笑んでくれる。 私の嘘の中で優しく囁いてくれる。 「……頼久さん?」 ああ、神子殿。あなたは私の名を呼んでくださるのですね……あなただけが呼んでくれるのですね。 真っ逆様に突き落とされるような感覚に頼久は恐怖と、それでいて安らぎを感じていた。もう戻れないかもしれない。 今、目の前にいるのは神子殿なのだろうか?……目を開ければあなたの微笑みに出会えるのだろうか?……幻影の中の己に、目を閉じろ、耳を塞げと言われているような気がする。 だが頼久は、自分が目を閉じているのかどうかすら、そんなことさえよくわからなくなっていた。その恐怖から逃れたくて、与えられる安らぎに甘んじたくなくて、なのにあなたに救い出してほしくて……もう、戻れなくてもいい。 ……だからあなたに触れた 頼久はゆっくりと手を伸ばすと、あかねの肩を優しく抱き寄せる。 柔らかな杭を刺し込まれるような痛みに全身は貫かれる。 その痛みを胸の奥深くへと刺し込むために、あかねを守る自分を見失わぬために、強く強く抱きしめた。 「え、やっ、頼久さん……」 あかねは突然な頼久の抱擁に驚き、瞬間に体を固くした。だが、自分に降りそそぐ頼久の柔らかな眼差しに少しずつ緊張をほぐすと、一気に頼久へと全身を預けてゆく。そして、自分を包み込む、愛する人の優しい温もりに、この上ない幸せを感じてそっと瞳を閉じた。 頼久は自分の腕の中で瞳を閉じてゆくあかねの、額にかかる髪を左右に分けてはきちんと耳にかけてやる。ほのかに色づく唇は、きつく結ばれた己のそれとは逆に、ほんの僅かに緩んでいた。愛しいあかねの口元に視線を這わせると、そこに唇の代わりに人差し指を添えた。 「あっ……」 驚いた顔で自分を見上げてくるあかねに、頼久は最上級の微笑みを返した。 神子殿、私はあなたを必ずお守りします。 あなたを決して、傷つけはしない。 あなたに永遠を誓う。 唇に触れた頼久の指先は、あかね守るのか、それとも、そこから何かが始まってゆくのか…… 長く伸びた頼久の影が僅かに動いた瞬間、あかねは目を大きく見開いた。 そして不意に流れてきた雲が月を隠し、二人を隠し……完全な闇を作り上げると、その中に何もかもが消えていった。 |
了 |
[指先から] |
初めての後書き 最後まで読んでいただいてありがとうございます。 この話は2002年8月に雄弥さんからいただいた頼久のイラストを見てイメージしたものです。 初めてイラストを見た瞬間に『神子の代わりに他の女を抱いた後の頼久』が思い浮かびました。(イラストを描いて下さった雄弥さんはこんなことを思ってもいなかったでしょうね) 話は変わりますが、私の思う頼久は一言で言うと「自分を見つめることを避ける男」です。自分の意思など無いと信じようとしている愚かな部分を愛しています。 できれば彼のそういう部分を書きたかったのですが、成功はしなかったみたいですね(笑)でも、また機会があれば書いてみたいと思っております。 ちなみにこの話の元となった雄弥さんから頂いたイラストはコチラ。「いただき物」のコーナーにもUPしてありますが、すぐに見たい方はクリックして下さい。 最後までお読みいただき本当にありがとうございました。 それではまた、どこかで・・・できればここでまた会える日を楽しみにしています。 2002,10,23・・・しえ |