月の光 いつだったろうか…… 月に向かって手を伸ばし、 それが、決して届かぬ光だと知った日は。 そして、そんなものは最初から欲しくもなかったと、 目をそらし、顔を伏せた夜は。 あれはいつだったのか…… 今宵も月は遠く、遙か彼方に。 けれど今は、優しい光に目を細める。 ◆ 夕方から降り始めた雨は夜半を過ぎてもなお止まず、闇の中に冷たい音が響く。頼久とあかねの寝室は静まり返り、ただ窓を打つ雨音だけが時折強くなったり弱まったりして時間の過ぎるのを知らせていた。 「雨止まないなぁ」 「そうですね」 すぐ隣から聞こえるぼんやりとした少女の声に、頼久もまた静かな声で目を閉じたまま答えた。 「え?」 その途端あがったバサっという布団の捲れる音に、頼久はあかねが自分へと体の向きを変えたことを知る。 「あれっ頼久さんっ、まだ起きてたの?」 「ええ」 「そっか、なんか嬉しいな」 あかねは頭を半分ほど枕へと埋めるようにして喋っているので、その声は少しくぐもって頼久には聞こえるが、それでも隠しきれない嬉しさも、自分では噛み殺しているつもりの笑顔もちゃんと頼久には届いた。 「嬉しい……ですか?」 「うん、だってさ、すごい静かだったし絶対頼久さん寝てると思ってたもん。なんていうか……夜中に一人で起きてるのって何となくだけど、世界中でたった一人だけぽつんって置いていかれちゃったような気持ちになるでしょう?」 「そうですね」 「頼久さんもそう思ったことある?」 どうだろうか。そんな風に思ったことはあっただろうか・・・ あかねが自分の思いを率直に話すたび、頼久は一つ一つ確かめるように自分の記憶をさぐる。 確かにそう思ったことはあるのだろう……と思う。 だが己を制することに慣れてしまった頼久は、それを表すだけの言葉を持たないから、それはいつも馴染みのない感情のように思えて・・・不意に黙りこんでしまう。 だがそれは武士であるために……優秀な武士であるためには常に己を律し、主を守りきることが全てだと、ただそれだけを命に刻んで生きてきた男の当然の姿なのだろう。 「ねえ、手……つなごう」 布団にくるまるようにして頭までもぐっていたあかねが、そっと腕を伸ばして頼久の布団を引っ張った。 指先に触れる小さな手は冷たいけれど、いつも心地よい優しさを頼久に与える。 あかね殿は、温かい人なのだ、と思う。 「それにしてもさ、この布団フカフカだね〜。やっぱり買ってよかったよね」 「はい、そうですね」 「ちょっと高かったけど、これくらいの贅沢は許されるよね、うん許されるのだ〜」 楽しそうに声を出して笑うあかねに自然と頬が緩んでゆく。 自分の手を包む優しい拘束に、それをギュっと握り返すことで頼久は同じ気持ちだと、あかねに伝えた。 新しい布団は確かに柔らかく、頼久は久しぶりに体を伸ばせたと言ってあかねを喜ばせた。 現代に来てからあたりまえのようにベッドに寝ていたが、その実いつまでも慣れることができず、幾度も寝返りを打ち、ぼんやりとした頭のままで朝を迎える日が続いていた。 それを話したことなど一度もなかった。 あかねに心配をかけることは何より嫌だった。 あかねがそのことに気付いていると頼久が知ったのは先週の日曜日。 いつもなら昼近くまで寝ているあかねが、朝早くからお出かけ用の服に着替えて目を覚ました頼久に待ち構えたように言った。 「頼久さんっ、早く起きて。今日はね買い物付き合ってもらいたいんだ〜」 「これからですか?」 「うんっ。だから早く起きて支度してね」 「わかりましたが……こんな朝から一体何を買いに行くのですか?」 「ま、いいから。さ、早くね〜」 何事か企んだような笑顔のあかねに頼久が連れて行かれたのはデパートの寝具売り場。訳もわからずに、あかねに腕を引かれ店員の前に押し出され、頼久はうろたえて瞳を泳がせた。 「あっ、あかね殿」 助けを求める頼久の顔などおかまいなしに、あかねは更にその背中をグイと前に押して店員を呼びつける。 「すみませ〜ん」 客の少ない午前中のデパート、なかでも寝具売り場に若い女の子の声が響くことなど滅多にないのだろう、その場にいた店員の顔が一気にこちらを向く。 だがその視線は頼久の背中に隠れるようになってしまったあかねには当然のことながら届かず、いきなり自分に集中した視線に頼久はいよいよ顔を真っ赤にした。そして近寄って来た一人の店員に向かって、あかねは頼久の体をつかまえて、 「この人がゆーっくり寝れるサイズのお布団ください」 小さな体の女の子が、一際大きな男の体を掴んで言うのだから、それはそれは微笑ましい光景で、店員もどことなく嬉しそうに目を細めると、展示してあるものだけでなく、倉庫からもいくつもの布団を持ち出し、あかねの買い物に協力してくれた。 そうして無事に購入した布団が、今朝頼久たちの元へ届いた。 その布団に体を埋めて、こうして今、あかねと手を繋いでいる。 自分の掌の中で時折くすぐったそうに動く小さな手。 触れているのは指先だけなのに、そこから体中に広がってゆく温度。 心地よい体温に頼久が目蓋を閉じようとした時、あかねの鼻先からふっと小さな息が漏れた。 ……あかね殿……もしかして…… 「あの……あかね殿」 「ん?」 ……もしかして眠れないのではないだろうか? 自分がベッドに慣れていなかったように、あかね殿は布団に慣れていない・・・どうして気付かなかったのだろう。 頼久は思わずあかねの手をきつく握り締めた。 「あかね殿っ、もしかして眠れないのではないですか?」 少しの沈黙……その後であかねの指先からほんの少し力が抜けて 「あ〜バレちゃった?」 やはりそうか…… 「申し訳ありません、私のために」 その言葉にあかねは慌てて身を起こした。 「違うよ、頼久さんのせいじゃないってば、ほらこの枕柔らかいでしょう?なんかさ柔らかすぎちゃって、よく枕が替わると寝付けないって言うじゃない……あれだよ」 懸命に言葉を紡ぐあかねが愛しかった。 泣きそうなくらい、涙が溢れそうなくらいに愛しい。 「あかね殿」 「え?」 頼久は自分でも気付かぬうちにあかねの体を己へと引き寄せていた。 いつになく強引で、誰よりも優しいその腕はしっかりとあかねを包み込み「頼久さん?」あかねがそう囁いた時にはもう、頼久の腕はあかねの首の下に回っていた。 「こうしたら……眠れますか?」 「あっ……」 ……いつもと一緒だ…… 高さも、温もりも、頬を寄せた胸から聞こえる鼓動さえも……いつもと一緒、たったそれだけのことにこんなにも安心できるなんて。 こんな時、何て言ったらいいんだろう。よくわからないけど、でも。 「頼久さん……ありがとう」 小さな声は頼久の耳ではなく、胸に直接届いてゆく。 腕の中の愛しい存在にそっと口づけを落とすと頼久もまた目を閉じた。 触れ合った体から伝わるお互いの温もりが嬉しくて、 目に見えない幸せに、目が眩みそうで…… 言葉にできない喜びは、心を饒舌にしてゆく。 ……あなたが腕の中にいなければ、私もきっと……眠れませんでした。 月を眺めて腕を伸ばしたのはいつだっただろう…… 今宵も月はどこか遠くから、星よりも遠く遙か彼方から静かに優しく輝いて二人を照らす。 月の光にも似た、あなたの優しさに、あなたは近くにいるという事実がこの上ない喜び。 だから、腕の中にある愛しい温もりを逃がさないように・・・・これからもずっと。 ――おわり |
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