空の向こうに
神子殿もしも、あなたと出会わなくても、
 たとえば、あなたを愛することがなかったとしても、
 時は、今と変わらず、そう、何ひとつ変わることなく、流れ続けることでしょう。
 それでも、この時の流れの中で、私はあなたを愛し、そしてあなたに愛されることを望んだ。
 あなたの永遠をこの手で掴んだ。
 
―― たとえそれが私だけに見える永遠だったとしても。


    


 ゆるやかな水の流れ。その川面に反射する光が眩しかった。
 じりじりと照りつける日差しは強く、まるで何もかもを焼き尽くそうとしているようだと頼久は空を睨み付ける。

 今朝、初めて自分からあかねを誘った。

 頼久はその時のあかねの嬉しそうな顔を思い出し軽く笑う。

 きっといつかまた、あなたはこんなふうに誰かと笑い合うのだろう。
私ではない誰かと、私の知らぬ世界で……。
神子殿、あなたには幸せになって欲しい。嘘ではない。心からそう思っている。けれど、今は、今だけは、自分だけに向けられるこの笑顔を、もう少しだけ見つめていたい。
 神子殿、あなたとの残された時間は爪の上に乗る砂よりも少ないけれど、それでも。

 頼久は、決心したかのように歩き出す。
これから切り出さなければならない言葉を心の中で何度も繰り返しながら、無造作に座っているあかねに近づいていった。
 ひとしきり水遊びを楽しんだあかねは、今はおとなしく川辺に座って、ただまっすぐにその流れを見つめていた。
頼久はあかねの小さな背中を後ろから抱きしめたい衝動にかられたが、その思いを払うように、あかねの横にわざと少し距離をおいて腰を下ろした。

 不意に隣に座り、自分と同じようにただ川の流れを見つめる頼久。その横顔を、あかねが悲しい目で見ていたことなど頼久はまるで気付かずにいた。


    


 ―― 頼久さん、元気ないけど、どうしたのかな。
 あかねは頼久が自分を誘いに来た時から、いつもとは違う印象を受けていた。

 きっと何か訳があるのだろう。
 頼久が自分からあかねを誘うことなど、これまでには考えられないことだった。
どこかへ行こうとか、何をしようとか、どんな些細なことでも、声をかけるのは、いつもあかねのほうからだった。
もちろん、その誘いを頼久は断ることなどなかったし、それに、あかねも頼久の気持ちをわかっているつもりだった。
頼久が自分から誘ってはこないことは、彼が誰よりも主従という関係を重んじているからで、決して自分を嫌っているわけではないともわかってはいた。
むしろ、言葉にはしなくとも、その仕草や眼差しは、あかねを安心させ、愛し愛されていると感じさせてくれていた。それを疑ったことなど一度もなかった。
 それでも、今日、こうして頼久が自分の言葉で誘ってくれたことを、あかねは何よりも嬉しく思うのだ。

 でも、今日の頼久さんは絶対におかしい。
 頼久さんは私に話し掛ける時、何か大切な話がある時はいつだって、照れくさそうに、それでもまっすぐに私の目を見る。
 それなのに今日は。
 ねえ、どうして目をそらすの?
 あかねが見つめるたびに、頼久の視線が宙を泳ぐ。そして何度も口を開きかけては再び閉じていた。
「ねえ、頼久さん」
 あかねが話しかけた瞬間、何かに弾かれたように、
「神子殿っ」
 突然に頼久が大きな声を出した。
 だが、その顔は依然として前を向いたままであかねを見ようとはしない。
「神子殿……っ、これまでありがとうございました」
 あかねの表情が固まる。
「頼久さん?それってどういう意味なの?」
 あかねの言葉を無視して頼久は一人話し続ける。
「神子殿、あなたと出会えたことは……私にとって……」
 自分にとって一生の宝だと、この思いを胸に生きていくと、何度も何度も心の中で繰り返した言葉を頼久は全部言うことができなかった。
 言わなければならない。
 あなたに全て伝えなければならない。
 たとえそれが自分に嘘をつくことであろうとも、あなたをこの世界から送り出すのが自分の最後の役目なのだとわかっている。
 だが、頼久は何も言うことができず、そしてあかねの顔を見ることもできなかった。
「それって、もういらないってこと?」
 あかねが何の感情もない声で、やはり頼久の顔を見ないままつぶやいた。
「はっ……どういう意味でしょうか」
 あかねの言葉の真意を計り兼ねた頼久が、顔に焦りの色を浮かべながら問おうとした時
「嘘つきっ」
 あかねはいきなり立ち上がって、頼久の腕をつかんだ。
「一緒にいるって言ったじゃない。ずっと一緒だって言ったでしょう?なのにどうしてっ」
「み、神子殿……ですが……」
 自分の腕を掴むあかねの力の強さに頼久は驚く。
「答えてっ!どうしてなの?どうして急にそんなこと言うの」
 興奮したあかねの顔は怒りと悲しみに歪んで、肩は大きく波打っていた。


 ずっと一緒。
 神子殿……私もそう思っていました。
 あなたと二人で、生きていけると……夢を、見ていました。

「神子殿っ」
 頼久は思わずあかねの体を強く抱きしめていた。
あかねは狂ったようにその腕を振りほどこうとしたが、頼久があらん限りの力で抱きとめると、あかねは急に力なくうなだれて頼久の腕の中でいつも小さな少女に戻った。
「頼久さん……」
 徐々に落ち着きを取り戻しながら、あかねが頼久を見上げた。
「私のこと……本当に元の世界に帰ったほうがいいと思ってるの?」
 あかねの、その問いに、頼久は無言でうなずいた。
 一言でも口にすれば、すべて終わってしまうような気がした。こらえきれずに自分の想いをぶちまけてしまいそうで怖かった。
「私は、頼久さんしか好きになれないのに?」
 あかねが正面からぶつけてくる言葉のひとつひとつが、頼久の胸に突き刺さり、それは深く深く食い込んでゆく。
「私などよりも……あなたにはもっと良い方が、きっと。……神子殿、私では、あなたを幸せにはできません」
「ただ傍にいるだけでいいって言っても答えは同じなの?」
 頼久はぎゅっと唇を噛み締めてうなずいた。
 あなたを愛していた。いや今もなお誰よりも愛している。
 けれどそれを口にすることは……あなたを苦しませるだけだ。
 神子殿、私はあなたに何か残せるだろうか。
 あなたを守る時間さえもう残されてはいないのに。
「神子殿……たとえ生きる世界は異なっても、いつも私は神子殿の傍に……一番近くに」
「……」
 神子殿、と名を呼ぶだけで身体が震える。一番近くに、いつでも一番近くにいたいと、言い終わる前に、頼久の身体は、あかねを抱きしめたまま膝から崩れ落ちた。
「神子殿……いつでも」
「いつでも?傍にいてくれるの?」
「ええ、一番近くに……あなたを守りたかった」
「頼久さん」
「神子殿……あなたを」
「どうして、頼久さんが泣くの?」
 泣いている?自分が泣いているのか?
「愛しています……心から、永遠に」
頼久の瞳の中で、あかねが小さく微笑んだ。
「うん、私も」
 そしてその微笑は少しずつ色あせてゆく。
「神子殿」
「でも」
 あかねはしっかりと頼久の顔を見つめ、静かに口を開いた。
「帰ったほうがいいんだね。頼久さん」
 頼久がしっかりと頷く。それがもう限界だった。抱きしめていたはずのあかねに逆に抱きしめられながら、頼久はその場に泣き崩れた。

 頼久さん、大好きだよ。
 でも帰ったほうがいいんだね。
 きっとここにいたら私、もっともっと好きになって……あなたを困らせちゃうんだね、きっと。



 あの日から……
 頼久の身体を抱きとめ、彼のすべてを諦めた日から、あかねの顔に笑みが浮かぶことはなくなった。
 あかねは、頼久の顔を見ることをやめ、頼久と口をきくことをやめた。
 それでも気がつけば知らぬうちに頼久を探している。そんな自分に苛立ちながらも、自分の胸に残る、頼久に対するこの想いが永遠に変わらないこともまたわかっていた。

 ――頼久さん……私はいつまでも、あなただけの私だよ。

 きっとこんなこと、あなたはわかってるよね。だから、今さら伝えないよ。あなたを困らせたりしないから。それに、私がこの世界を離れてしまえば、私たちは、もう会うことはないんだ……もう二度と。
 ねえ、頼久さん。
 諦めとひきかえに永遠になる感情って確かにあるのかもしれないね。


    

 京を離れる直前、あかねを囲む八葉の面々は互いに驚愕の色を隠せなかった。
誰もが頼久の元に残るだろうと思っていたあかねがもとの世界に戻ると言う。
そのあかねの言葉に、皆が戸惑っていた。引き止めてよいものか、それとも送ってやることが正しいのか……八葉の面々には難題過ぎたのだ。
そして、最初こそ、共に元の世界へ戻ることを望んでいたはずの天真や詩紋までもが、あかねの選択に驚き、あかねに詰め寄った。
「おい、あかねっ」
「え、なに?」
「本当にいいのかよ……お前、後悔しないのか」
 繰り返される問いに、あかねはただ黙って、少し笑いながらもしっかりとうなずいた。
「だったら、もう行こうあかねちゃん」
 二人のやり取りを見ていた詩紋が、耐えられないという表情であかねの手を取った。
「そうだな、急がないと戻れなくなっちまう」
 天真も、自分に言い聞かせるようにその場を後にした。
 あかねは八葉全員の顔を見ながら、これまで一緒に闘ってくれ、助けてくれたことへの礼を述べた。
 そう、私は。
 私たちは、元の世界に帰る。
 ただ、元に戻るだけ。

―― 龍神を呼ぼう

 三人は、この世界に来た時と同じように体が光につつまれてゆくのを感じていた。
 結局、最後の最後まで、頼久とは言葉を交わさないままの別れになってしまった。
 これでよかった。こうするしかなかった。
 あかねは、そう言い聞かすようにぎゅっと目を閉じる。
けれど、自分の体が時の波に紛れてしまいそうになった瞬間、不意に目を開くと、自分を真っ直ぐに見つめている頼久と目があった。

―― 神子殿、あなたを愛しています。心から……永遠に。

 頼久の声があかねの耳に蘇る。
 強く見つめると照れくさそうに下を向き、真摯な眼差しで、あなたを守ると言う。
そんな、これまでの頼久との全てが鮮やかに蘇り、あかねは目を細めた。

 ――頼久さん、私も……

「ねえ、天真くん。ごめん、私やっぱり帰れない」
 頼久から目を離さぬまま、あかねは呟いた。
「何言ってんだ、あかねっ、今さらもう無理だ」
「あかねちゃん、まさかっ」
 あかねは天真たちを一瞬振り返って、微笑んだ。
 ごめんね……みんな。
 でも……だめなの。
 私やっぱりあなたじゃなくちゃ駄目なんだよ、頼久さん。
あの日、あなたと出会ってしまった運命は消せない。
あなたがいなければ私は……頼久さん、私、他の誰でもない、あなたに傍にいてほしいんだ。
 あかねは強い風を受けながら、決心したように手を伸ばした。
「頼久さんっ」
「神子殿っ、危ないっ」
 駄目だ、という声が遥か上空のほうから聞こえる。
 危ない、という声が自分を見上げる八葉の中からあがっている。
「神子殿、なりません!」
「いやだ。頼久さんと一緒にいたい。」
「っ、神子殿、いけませんっ、戻ってください」

 駄目でもいい。危なくてもいい。
 頼久さん、あなたに会えないなら
 あなたに愛してると言えないなら
 あなたを映すことができないなら
 体なんてなくなったっていい。
 だからどうか、どうかこの手を放さないで。

「神子殿!」

 みんなの声が遠ざかってゆく。
 眩しいよ。すごく眩しい。
 でもね、頼久さん。私、あなたの顔がよく見える。あなたの手の温もりだけはちゃんと感じるよ。私、それだけでいいの。ただあなたの傍にいられれば。
 頼久さん、あなた以外にいい人なんていやしない。私の好きになった人が、私のいい人なんだよ、頼久さん。

 ―― だから、もう二度と……この手を

 光がはじけて真っ白な世界が広がった。
誰もがみな、目を覆い、顔を伏せたが、その中であかねだけはしっかりと頼久を瞳に映していた。
 そして、それもつかの間、世界はまた静かに、青と白の単純な色に包まれていった。

この手を、離さないで ――


    


「おはようございます、神子殿」

 頼久は今日も、物言わぬあかねにゆっくりと囁く。

 神子殿……結局私はあなたの永遠をこの手でつかんだ。
神子殿、愛しい人。
私はあなたを壊してしまった。それとも私が壊れてしまったのか。いや、あなたを失うことで、あなたを取り戻したのかもしれない。
 あなたは、あなたの全てを私に差し出してくれた。これからは私の全てをあなたにささげよう。愛しいあなたに。
 たとえ、あなたの瞳に二度と私が映ることがなくても。

「神子殿、今日も暑い一日になりそうです」
 頼久があかねの髪をそっと撫でる。
 あかねは限りなく無垢な愛を瞳にたたえながら、静かに微笑んだ。

 雲が流れてゆく。
 時もまた、何事もなかったかのように流れてゆくだろう。

神子殿もしも、あなたと出会わなくても、
 たとえば、あなたを愛することがなかったとしても、
 時は、今と変わらず、そう、何ひとつ変わることなく、流れ続けることでしょう。
 それでも、この時の流れの中で、私はあなたを愛し、そしてあなたに愛されることを望んだ。
 あなたの永遠を……この手で掴んだ。




――おわり