| あなたでなければ | |||
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| ――あの日も確か、晴れていたっけ。 目を閉じると、ふとそんなことを思った。閉じた目蓋に降り注がれる日差しが気持がいい。 あの日というのは、もちろん、この世界に来る直前のこと。天真くんと詩紋くん、それから自分の三人が連れ立って歩いていた日のことだ。 これから一日が始まるといった時に、昼も夜も抜かして(何しろ時空を越えちゃったわけだし)違う世界の一日に飛び込んでしまったわけだから「あの日」と呼ぶには短すぎるかもしれないけれど。 まあ、とにかく。運命の悪戯か、それとも、これぞ私の生きる道だったのか……正直なところ、未だにきちんと理解はできていないけど、異なる世界からやってきた私が龍神の神子と呼ばれ、天真くんと詩紋くんが八葉と呼ばれるようになった日から、早くも季節は移り変わろうとしている。 今でも失敗は多いけど、私にしては頑張ってきたと思う。毎日たくさん歩いて、怨霊と呼ばれる者たちを封印する。それがこの世界を守ること、ここで出会った大好きな人たちを守ること、そんな風に考えながら過ごしてきた日々も、もうじき終わろうとしている。 そうだ。とうとう、最後の決戦が目前に迫ってきているのだ。 不思議なことに、私はその決戦を怖れてはいない。 そりゃあ確かに、この世界が自分次第で変わってしまうと思えば、それは身震いすらする気持ちだったけど。 でも、八葉のみんなの力を信じてるし、それにきっと勝てるという妙な確信もある。 それよりも恐いのは、恐くてしかたないのは、戦いが終わった後の自分のこと。 そして頼久さんとのことだった。 ――最近の頼久さんは絶対におかしい。 そう思い始めたのは、いつだったろう?知らぬうちに、いつもいつも頼久さんのことばかり考えるようになっていた。だからあの日……私は言ってしまったのだ。 あかねは初夏の日差しの中、京の町をとぼとぼと、一人歩いていた。 その小さな胸には、自分の放った言葉を後悔しながら。そして、耳には今さっき聞いたばかりの、頼久の言葉を響かせながら。 『いい加減にしていただきたい』 頼久さんのあんな声初めて聞いた。すごく怖かった。 この世界に来て初めて話した八葉が頼久さんで、それからずっと一緒にいて……そりゃ、たまには私の行き過ぎで困らせたことはあったけど、あんなに真剣な顔で怒るなんて。 あんな声、あんな顔……これまで知らなかった。 まぶしいほどの日差しの下を、あかねはただ、自分の足元ばかり見つめながらフラフラと歩く。そのためか、後ろから友雅が近づいてきていることなど全く気がつかなかった。 一方、友雅はといえば。 かなり遠目から、いつもとは様子の違うあかねに気づいていたようだ。おや?と、含み笑いをしたと思うと、忍ぶように、けれども足早にあかねへと近づいて来た。そして、背後からそっと声をかける。 「浮かない顔だね、神子殿」 指先で、こつんと軽く肩を軽く叩きながらの囁きに、あかねの返事はない。 友雅は後ろからそっと顔を覗き込む。だが、あかねは、それどころではないのか、全く気付きもせずに、足を止めようとすらしない。 完全に不審に思った友雅が、そんなあかねの袖をグイッと引っ張った。 「神子殿?」 「きゃっ!」 「おや、おどろかせてしまったかな?」 「友雅さん……ごめんなさい、ぜんぜん気が付きませんでした」 友雅は微笑みを絶やさずに、かまわないよ、と髪をゆっくりとかき上げた。 この様子にいったいどれほどの娘が魅了されてきたことか。それまで色恋に疎かったあかねも、初めてこの男に会った時には、思わず顔を真っ赤にし、しどろもどろになってしまったほどだ。 「ところで神子殿、浮かない顔だが、どうしたんだい、一体?」 どうしたんだい?と聞いたところで、あかねが頼久のことで悩んでいたことは、薄々わかった上で聞いているのだ。友雅とはそういう人間だ。 そんな彼の目から見ても最近の頼久の様子は、確かに首を捻ることが多く、あかねが頭を悩ますのも、至極当然のことと思える。 が、最近おかしいのは、何も頼久に限ったことだけでない。同じような感情を、あかねに対しても持っていたのだが、そこは友雅、努めて普段通りの声で尋ねていた。 「実は…… あっ、い、いえっ、別に何でもないんです。……大丈夫ですから」 「おや?そうなのかい?けれど、大丈夫って顔には見えなかったが。それに私の声にも気づかないなんてね」 笑いながら言う友雅の、いつもながら大袈裟に深刻ぶらない姿が、あかねは何故か嬉しく感じる。 ……友雅さんに話してみようかな。 たとえ、他愛ない悩みだとしても、自分の胸の中に閉じ込めておくのは辛いものだ。とりわけ年若い女の子にとっては。 そんな時に、包み込むように接してくれる友雅が目の前に現れ、優しく声をかけてくれた。あかねが急に何もかも打ち明けたいと思ってしまうのも無理はなかった。 そんなあかねの変化に気付いたのか、友雅はからかうようにふっくらとした顔を覗き込んだ。 「友雅さん?」 「私じゃ、頼久のようにはお役に立てないかな?」 友雅の口をついて出た、頼久という名前にあかねは反射的にびくっと身体を震わせた。 ……おや?やはりそうか。私の思ったとおりだね。 友雅がちらりと後ろを振り返えった。 そこにはあかねを心配して遠くから付けてきたのであろう頼久が立ち尽くしてる姿が見えた。 友雅は一瞬、頼久と視線を合わせ意味ありげな笑みを送ると、またすぐにあかねに顔をよせ耳元でそっと囁いた。もちろん視線は頼久に残したままで。 「さ、行こうか神子殿。私に話してくださるのだろう?」 「で、でも、行くってどこへですか?」 「いいからついておいで」 「えっ?」 「さぁ、姫、どうぞこちらへ」 友雅はあかねの肩を抱くと、有無を言わさずスタスタと歩き出した。そしてもう一度、ちらりと頼久を見やる。顔に笑みを浮かべることも忘れない。そんな中、あかねは自分達のその姿を頼久が見ていたとは夢にも思わないで、友雅に手を引かれるまま歩いていた。 そして、牛車に揺られ半刻ほど。 着いた場所は、友雅の私邸であった。 「あ、あれ?ここって…・・・友雅さんのお家でしたよね?」 「お家?ああ、邸のことかい?そういうことになるね。ここなら神子殿も人目を気にせず話せるだろう?」 「え、でも」 思い切って、全部を友雅さんに話してみようか……どうしようか、やめようか、でも……このままじゃ。 さんざん迷った末に、あかねは友雅を見上げる。すると、そこにはいつもの優しい眼差しがあった。 あかねは、無言のままひとつ頷いて、それからゆっくりと今朝の出来事を話しはじめた。 今朝、あかねは目を覚ました時から頼久のことをだけを考えていた。実は、これは今朝に限ったことではない。最近はいつもそうなのだ。 ここしばらく頼久があかねの前に顔を出そうとしない。 ――私が何かしたのだろうか。 これまではいつも、隣には頼久がいたというのに。 「どうして急に来てくれなくなっちゃったんだろう」 いくら考えても、思い当たることはひとつもなかった。それまでは、あかねが呼ばずとも、頼久の方から同行させて欲しいと申し出てくれていたというのに。 ああそういえば、というような出来事があれば、まだ納得もいく。素直に謝ることもできるだろう。けれど、あかねにはそれが無いのだ。 頼久が顔を見せなくなった前日だって一緒に過ごしていた。怨霊を封印した時は、はにかむような笑顔で「お見事です」と言ってくれた。そして共に夕陽を眺めながらの帰り道でも、京に平和が戻りつつあることを喜ぶような会話こそしたが、間違っても喧嘩や言い争いなどはしていない。 そうなると気になって、気になって仕方がない。 それゆえに、文字通り、「朝な夕な」に頼久のことばかり考えてしまう。 私のこと何か怒ってるのかな。でも私、何かしたっけ? 頼久の態度が気になる。 それは事実で、今のあかねの心の全てでもあった。 しかし、龍神の神子としてのあかねには、特定の人間、しかも自分が恋をしている相手のことだけを考えていてはならない、ということも十分わかってもいた。 「悩んでいてもしかたないよね」 だから、自分の心を振り切るかのようにそう言うと、よしっと握りこぶしを作り、ことさら明るい声で藤姫を呼んだ。そして、思い切って今日は頼久と一緒に出かけたいと、自分から告げたのだった。 しばらくして、あかねの望み通り、頼久が目の前に現れた。しかし、目蓋が伏せられているその顔にはおよそ表情がない。 ―― え……? 見る者が見れは、それは必死に感情を押し殺している顔だと一目でわかっただろう。が、自分の顔を見ようともしない頼久の態度に傷付いたあかねには、到底そんなことまでわからなかった。 「あの……」 「はい」 一言、言葉を交わすごとに沈黙が走る。 あかねはもちろん、頼久も挨拶をしただけで、余計なことは一言も喋ろうとはしなかった。 ――もう、しかたないや。 「頼久さん」 「はい」 「今日は墨染に行こうと思います」 「御意」 再び、無言。 しかたなく、あかねが一人で話し始めた。 しかし頼久は時折「はい」「いえ」と短く答えるだけで、それはまるで会話とは言えないものだった。そして、それは墨染に着いてからも変わらず、前を歩くあかねが何か話すと、頼久は後ろから短い返事ともいえない声を返すだけだった。 ――もう、やんなっちゃうな。 何も答えてくれないや。私の話なんて聞いてないのかな。 だったらもう……好きなこと言わせてもらうおうかな。うん、そうだよね、今まで聞きたかったことも全部、この際、言っちゃおう。 「頼久さん」 「はい」 「頼久さんって好きな人とかいるんですか?」 突然のあかねの質問に頼久が顔を真っ赤にして身体を固めた。 ――あ……そうか、やっぱりいるのか。いない方がおかしいよね。 自分で聞いておきながら、心が破れるような気持ちになる。 聞かなきゃよかった。知らなきゃよかった。けれど、もう遅い。 「あ、好きな人、いるんですね。私、頼久さんに憧れてたから、ちょっとショックだなぁ」 傷付いた心を隠すように、わざとらしいくらいに明るく言い放つ。そしてすぐに、こんなことを言っている自分が恥ずかしくて、唇を尖らせながら横を向いた。その頬は、ぷっくりとふくれている。 と、同時に、頼久の眉間には皺がより、みるみるうちに険しい表情に変わっていったのだが、横を向いてしまったあかねは、そんな頼久の顔を見逃してしまう。もしも見ていたなら、いくらあかねでも、頼久の変化に気が付いただろう。 「神子殿……」 「あ、わかった!だから、最近はあまり私と一緒に出かけてくれないんですね」 「神子殿っ」 返事をしないあかねの、その話を遮るように、頼久は搾り出すような声を出しながら、主を見つめた。 もちろんあかねには、最初から頼久の声は聞こえていた。けれども、こんな自分の顔を見られたくない、知られたくない。だから、横を向いたままかまわず続けた。 「私ね、戦いが終わっても、ここに残って、頼久さんと一緒にいたいなぁなんて、ひとりで勝手に思ってたんですよ。馬鹿ですよねぇ。初恋って実らないって言いますもんね」 そこまで言ってようやっと、あかねは呼吸を整える。 ほうと大きなため息をつき、口の端をきゅっと上げ、笑顔を作ってみた。 ―― これで、いつもの私……だよね? 「ね、頼久さん」 言いながら振り向くと、いきなり頼久の睨みつける視線とぶつかった。 「頼久さん、またぁ! ダメですよー、そんな怖い顔しちゃ」 あかねが頼久の顔に指先を伸ばし、いつもの調子で眉間の皺に触れようとしたその時、頼久の手があかねの手を払った。 「え……」 こんなことは初めてだ。 いつも誰よりも一番に私を守ってくれる頼久さん、こっちが恥ずかしくなるくらい、私のことを神聖な存在だと言って憚らない人なのに……。 あかねは驚いて頼久を見つめると、その視線の先にある頼久の唇がわずかに動き、小さな声を発した。 「―― ……たい」 「え?何?頼久さん、よく聞こえないんだけど」 何を言っているのか聞き取れなかった。 見れば、頼久の唇は震え、両の手がきつく握り締められている。 「頼久さん?」 「……いい加減にしていただきたい!」 あかねが一歩近寄ろうとした瞬間、頼久は怒鳴るように言葉を投げつけた。 あかねの身体が凍りついた。 「い、いい加減にって……どういう意味ですか?」 「言葉の通りです」 「そんなんじゃわかりません!最近の頼久さんおかしいです!私がいったい何をしたっていうんですか?」 頼久は大きく息を吸うと、あかねを見据えた。 「神子殿、お戯れはおよし下さい。決戦はもう、じきなのです。油断はなりません。このような時に、何故、私をからかうのですか?神子殿はいつもそうでいらっしゃる。この頼久をからかって、そんなにお楽しいですか?もう……もうっ、いい加減にしていただきたいのです」 一見、丁寧に聞こえる言葉遣いだが、その端々から鋭い刃が光っているように感じる。そして、低く唸るような頼久の声は、それだけであかねを傷つけるのに十分だった。 ―― からかう? 「神子殿……」 「……」 「神子殿、申し訳ございません。言葉が過ぎたこと、どうぞお許しください。しかし、からかわれるのはこの頼久、我慢なりませんでした」 「……信じられない」 頼久があかねを見ると、その瞳が涙で滲んでいた。 「申し訳ありません」 「謝ってくれだなんて言ってません。頼久さん、からかうって何ですか!そりゃあ、調子に乗っちゃったかもしれないけど、でも、私、頼久さんにそんな風に思われること言った覚えないです」 からかう、という頼久の言葉に、あかねの頭に一気に血が上った。 「神子殿、落ち着いて下さい」 頼久は謝ってくるが、あかねは自分が怒っているのか、それとも悲しいのか、自分の感情を把握する余裕もない。それなのに、あとからあとから涙が溢れる。あかねは涙でもう何も見えなかった、頼久の姿も、そして自分の素直な心も。 「だったら教えて下さい。からかうって、どういうことですか?」 「それは……ですから、色恋の……、そ、その、私に慕う女子がいるとか、その、神子殿が京にお残りになるだとか……いえ、今に限ったことではございません。神子殿はよく、そういった類のことを仰いますが、私はご覧の通り、この剣を振るうことしかとりえのない男です。そのような浮いた話には慣れておりません」 頼久としてはめずらしく、つっかえながらも、途中でやめることなく話し続けた。 「それゆえ、つまらぬ男と思われるのは致し方のないこと。ですが、神子殿、私は自分を恥じてはおりません。あなたを守ることのできる、この剣を、この腕を……自分が必ず神子殿をお守りするのだと誓ってまいりました。神子殿、貴女は神聖なお方です。ですが、たとえ神子殿でも、好いてもいない者に、あのような戯言を申されますこと、この頼久には理解しかねます。それとも、無様なこの反応を愉しんでおられる ――」 「そんなわけないじゃないですか!」 愉しむという表現に、あかねはとうとう声を荒げ、頼久の話を止めた。 「み、神子殿」 ―― からかう?なにそれ。 冗談で、あんなこと言えるわけがない。何でそんなこともわかってくれないのだろう。 「確かに私の言い方は悪かったです。でも、私がいつもそういこと言っちゃうのは、頼久さんのことが気になるからです。気になって、気になって仕方がないんです」 「どういうことでしょうか?」 ここまで言っても伝わらないのかと、あかねは諦めにも近い気持になる。張っていた声からも力が抜けた。 「なんかもういいです。ごめんなさい。私ちょっと疲れちゃいました」 「……」 「いつもいつも私ばかりが好きで、頼久さんちっともわかってくれないし、もう嫌だ」 「え……好き、とは……」 「だから頼久さんを好きだって言ってるの。好きだから気になるんじゃないのっ。どうして、どうしてわかってくれないの?からかうなんて、そんなわけないじゃないですか!」 言うだけ言うと、あかねは駆け出した。 「み、神子殿っ、お待ちください」 その背中に頼久の声が届くがそれも全て無視して駆けた。一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。 興奮していたせいで、自分が何を言ってしまったのかわからないという不安もある。が、一方では、ただ、自分の言いたいことだけを頼久にぶつけてしまったことだけはわかっていた。 ―― まるで子供だよ。 これまでずっと、年上の頼久に一歩でも近づきたいと頑張ってきたつもりだったが、結局、こんな風な言い方しかできない自分はまだまだ高校生の子供だということを証明しただけのようにも思う。 そんな自分の姿を頼久に見られたことが、恥ずかしくて悔しい。 夢中で走り、ふと目をあげると自分が京の町中に入っていたことに、あかねは初めて気がついた。 「なるほどねぇ」 全てを聞き終わった友雅は、やれやれと言った顔であかねを見つめた。 ―― まったく、これはどっちもどっちと言ったところかな。 「やっぱり私、子供なんですかね」 「そうとは言わないよ。あなたは素敵な女性だ、この私の心を乱すくらいに。確かめてみるかい?」 しゅんと小さくなってしまった、あかねの手を取り、友雅はにやりと笑うと、その手で自分の胸元を押さえさせた。 「と、友雅さん!何してっ」 「はは、ちょっとした悪戯心さ」 友雅ならではの、気持ちの転換方だったのだろう。驚いたあかねの顔にすっと紅がさし、今までの落ち込んだ顔に少し精気が戻ったようだ。 「けどね、神子殿」 頃合を見計らうように、友雅は話を元に戻す。 「頼久の言い方も良くないが、神子殿も馬鹿正直すぎるように私は思うよ。それに、あれは不器用な男だということは、神子殿だってもう十分に知ってるだろう?それでも、許してはやれないかな?」 「でもぉ……」 あかねは、友雅の言葉に苛立った。 ―― 友雅さん、どうして頼久さんの味方するんだろう? 「ねぇ、神子殿、ひとつ聞いてもいいかい?」 友雅はふと遊び心を出した。 その声には、断られるはずがないという自信がこもっている。そして友雅の予想通り、あかねは疑うこともなく、はいと頷いた。 「そんなに頼久が好きかい?」 「はい」 単刀直入な友雅の質問に、すぐさまあかねは頷く。 「ふぅ〜ん。いやに素直なんだね。」 友雅はあかねの顔を覗き込んだ。 ―― おやおや、真っ赤な顔をしちゃって。だけど少し妬けるね。 「やはり私では駄目なのかい?私なら姫に悲しい思いなど決してさせないよ」 「と、友雅さんっ」 友雅があかねの肩の手をかけると、その身体をぐっと抱き寄せ、内緒話をするように耳元に口を近づけた。 「私なら、いつでもこうして姫の傍にいてさしあげるよ。どこでも、あなたの行きたいところに連れて行ってあげよう。もちろん、この可愛い耳には絶えず愛を囁きながらね。でも、それでも私では、だめなのかい?」 あかねの耳元に、ふっと柔らかな唇が触れた。 「あっ。友雅さんっ、駄目ですってば」 友雅は後ずさりするあかねの腕をつかみ、抱き寄せるようにして肩をすっぽりと袖で包む。 「本当に可愛いね、神子殿は」 「あ、あ、ありがとうございます」 「でも私の愛は受け入れてもらえないのだね」 友雅が心底残念そうな声で呟いた。多少芝居がかった声も仕草も、今のあかねには見抜く余裕などない。 「ごっ、ごめんなさい。私、友雅さんのこと好きです、あっ、好きと言ってもそういうのじゃなくて、えっと……その、嫌いとかじゃないんです。でも、あの、わ、私、頼久さんじゃなきゃ駄目なんですっ」 駄目なんです。そうあかねが言った瞬間、友雅の腕がすっと離れた。 「友雅さん?」 あかねが友雅を見上げると、そこにはいつも通りに微笑む顔があった。優しい瞳がまっすぐに自分を見つめていた。 「神子殿、今と同じことを頼久に言ってごらん。そうじゃないと後悔するよ、きっとね。人の恋路に口を出すのは趣味じゃないが、可愛い姫の泣き顔はもう見たくないからね」 片目を閉じ、悪戯っぽく微笑む友雅に、あかねは胸が熱くなった。それは、いつかあかねが、友雅さんみたいな人は、ウインクが似合うと思うと言って、嫌がる友雅に無理やりにやらせてみた仕草だ。 覚えてくれていたんだ。こんな時に、こんな場面で、見せてくれるなんて……。 「あの……やっぱり私もう一度行ってきます。なんか恥ずかしいとこ見られちゃったけど、ほんと、ありがとうございました。あ、それから友雅さん」 「なんだい?」 「私、友雅さんのこと好きですから、でもっ……」 「ふふっ、わかっているよ。いいから早く行きなさい」 「はい」 転びそうに駆け出すあかねを見送り、友雅はため息をついた。 ―― 私も、あなたと同じように冗談で言ったわけではないのだけどね。まあいいか。さてと…… それから友雅は視線を後へ動かすと、もうひとつため息をついた。 ――次は、残るもう一人を何とかしなくてはなるまい。 「おーい、頼久、そこにいるんだろう?」 友雅の背後で、ガチャリと音が鳴った。 「友雅殿、神子殿に何をなさったのですか」 頼久の手が腰の太刀にかかる。 「おい、落ち着け頼久。ともかくその物騒な物から手を離してもらえないかな」 ―― この方はどうも苦手だ。 頼久には、友雅の笑みが不可解だった。 「で、神子殿がどうしたって?」 友雅がわざととぼけて聞き返すと頼久の目が鋭く光った。 「友雅殿、神子殿に何をなさったのです?」 「おや、やはり心配なのかい?でも、私は何も悪いことはしていないけどね」 「っ……それではどうして神子殿はあんなに急に立ち去られたのでしょうか。あなたとの間に、何かあったと考えるのが妥当だと」 「勘違いをするな頼久。何も無いとは言っていない。私は悪いことはしていないと言ったまでだ」 「しかし」 「ああ、そんな顔をするんじゃないよ。君も見ていただろう?私はただ神子殿の背中を軽く押しただけさ」 「背中を?」 友雅の言葉は頼久には上手く理解できなかったが、それでも、いや、それだけに頼久の顔に焦りが浮かぶ。 「では、神子殿はどちらへ」 「さあね。ああそう言えば桜を見に行くとか言ってたかね」 ―― 桜?この男は何を言ってるのか?この季節に桜など。もう、とうに花は散ってしまっているだろうに。 「おや、また固まってしまったね。頼久、お前も少し素直になったほうがいいんじゃないかい?」 「わ、私は……」 「とにかく神子殿は桜を見にいかれた。後は自分で考えるといい。悪いけど私は失礼するよ」 ――まったく似た者どうしとはよく言ったものだ。 頼久をその場に残したまま、友雅は部屋の奥へと入ると、そう言いながら、くすりと笑いをひとつ落とした。 一人取り残された頼久は、考えあぐねていた。 盛りを過ぎたこの時期に桜を見るなど、頼久の常識の範疇には入っていない。だが確かに、桜を見に行ったと友雅は言った。どこか不埒な印象を与える男だが、嘘をつく人間でないことは、頼久も承知している。だが…… 「桜……桜といわれても、この京には数え切れないほどの桜の木が……」 ―― 神子殿と桜! 頼久は一つの考えに思い当たると、すぐさま馬を走らせた。 一方、その頃あかねは、再び墨染に戻っていた。 頼久のことだ、今頃はもう藤姫の邸へと戻っていることだろう。もしかしたら一人で帰ってきたからと、藤姫に叱られているかもしれない。 でも自分は邸に帰る前に、頼久にきちんと話をする前に、もう一度、あの桜の木が見たかったのだ。 ――春になると、綺麗だって頼久さんが言ってたな。早く来年にならないかな。 友雅に背中を押され歩き出した道すがら、あかねはこれまでの出来事をゆっくりと振り返っていた。 何も知らない世界で、緊張し、怯えていた日々。天真や詩紋を巻き添えにしてしまったと自身を責めるような気分だった時、少しずつこの世界に慣れ、藤姫を助けたいと思い始めた頃、そのどの時も隣にいたのは頼久だった。 そして、いつしか……あの人に褒められたい。あの人はどう思うだろうか?あの人は今何してる?あの人は私のこと……そんな風に思う時はいつも「あの人」の部分に頼久の名を当てはめては胸を熱くしていた。 そんな自分の気持ちに素直になろうと思った。多分、ずっとそう思ってた。だけど恥ずかしくて、嫌われるのが怖くて、呆れられるんじゃないかと思うと、つい冗談めかした話し方しかできなかった。 ―― それじゃあ何も伝わらないよね。 そんなあかねの背中を友雅はそっと押してくれた。その指先は、勇気を出すのだとあかねに呼びかけ、ようやっと、あかねは決心が着いたのだった。たとえ頼久への想いがかなわなくとも、この京に残りたいという気持ちを大切にしようと。頼久を好きだという、この想いを大事にしていこうと。 頼久のいない世界に帰ることなど、もはや考えられないほどに頼久を好きになっている自分を素直に認めようと心を決めた。 ――頼久さんが私を好きになってくれなくても、私が好きでいることは自由だもんね。 「神子殿っ」 急に名前を呼ばれたあかねは、驚いて顔をあげた。 「あれ?頼久さん……なんで?」 あかねは、頼久が何故ここにいるのかいまいち理解できなかったが、ふっと頼久が明日からまた自分のことを避けるであろうと思うと、途端に焦りはじめた。 今しかない。さっきは勢いで言ってしまったけど、今度はちゃんと素直に想いを告げよう。 そうだ、今しかないんだ。 あと少しすれば嫌でも終わってしまう。 この戦いを終わらせなければならない。それが私の使命なのだから。でも、そうしたら、私は龍神の神子でも何でもなくなって、頼久さんも八葉ではなくなって……もしかしたら、もう会えなくなるかもしれない。 やっぱり今しかない。 しかし、そんなあかねが口を開くよりも早く頼久の声が響いた。 「神子殿、あれからどちらへ行かれていたのですか?」 友雅のところへ行っていたと言うのは、なんだか気恥ずかしくて言えなかった。かと言って上手い言い訳も咄嗟には出てこない。 「えっ、別に」 「言えない場所なのでしょうか?」 「そんなことないです。言いたくないだけですよ。どこだっていいじゃないですか」 素直になろうと思ったばかりなのに、まるで何かを疑うような目で頼久に見られ、あかねはつい意地をはってしまう。 これではまたさっきと同じだ。 あかねは、よしっと気を取り直すと、頼久に向かい話しかけようとした。ちゃんと言うんだ自分の気持ちを。 「頼久さん。あ、あのね、私ね、京に残ろうかと……」 「神子殿、答えてください。友雅殿のところに行かれていたのではないのですか?」 あかねの言葉はまたもや頼久によって遮られ、告白のチャンスを逃してしまった。 「そうですけど……知ってたんなら聞かないでください」 ―― ああ、もう。なんで今そんなこと聞くんだろう。 自分の想いを告白することを、半ば諦めかけたあかねは、その場から離れるようにゆっくりと歩き出した。と、頼久がその腕を掴む。 「いっ、痛いじゃないですか、離してよ」 「いえ、離しません。神子殿、お答えください。友雅殿と何があったのですか?」 「何がって、別に何もないですよ」 「本当に、そうでしょうか?友雅殿を庇われてらっしゃるのではないのですか?」 「そんなわけないでしょう?本当にただ話をしていただけです」 「お話?神子殿が友雅殿とお話……」 これでまた何の話かと聞かれたら、あかねはとてもじゃないが本当のことを言う勇気などない。 「そうです。ねえ、もういいでしょう?離してってば」 あかねが頼久から逃れようと身体をよじると、頼久は逃がさんとばかりに、おもむろにあかねの身体を抱きしめた。 「きゃっ、何するんですか、離してよっ」 あかねが、もがくように頼久を見ると、頼久はきつく抱きしめたまま上から怖い顔で見下ろしていた。 「神子殿は友雅殿がお好きなのですか」 「は?何でいきなりそんなこと聞くんですかっ。それより、もう離して下さいってば。もうっ」 あかねがいくら頼久を突き放そうとしても、所詮、力では勝てない。 「お答えください、神子殿は友雅殿がお好きなのですか」 「それは……そりゃぁ、まあ、嫌いじゃないです」 「嫌いではないとは、お好きだということでしょうか?」 「そうですよ。好きですけど!それが何か?」 そう叫んだ瞬間、頼久の瞳の奥が紅く燃えたように見えたが、それでもかまわず続けた。 「だって友雅さん優しいし、私のことを好きだとも言ってくれるし」 頼久の腕に一層の力が入り、あかねの頭を自分に引き寄せる。 「神子殿は、友雅殿に好きだと言われたから、だから好きになられたのですか?」 「頼久さん意味がわからないですよ。ってゆうか、もう、いいから離してください」 「神子殿は、さきほど、こちらに残られると仰いましたが、それは……友雅殿がいるから京に残るということでしょうか……どうなのですか、神子殿っ」 「何言ってるんですか?おかしいよ、頼久さん!ほんと言ってることよくわからない。最近、ずっとおかしいですよ」 「そうでしょうか?そうかもしれません。……ですが私とてあなたをっ」 頼久は吐き出すように言うと、あかねの唇に強引に自分のそれを重ねた。 「んっ……」 あかねに息もつかせぬほど、荒々しく唇を吸い上げる。 無我夢中で奪った唇は柔らかく、頼久を夢心地にさせた。 だが、頼久は次の瞬間、自分の頬に熱を感じ、はっとして目を見開く。 ―― 泣いておられるのか? 「神子殿……」 自分の頬を濡らす熱い雫が、あかねの涙だと気付き、頼久は、それまであかねをきつく抱きしめていた腕を解いた。 「み、神子殿……申し訳ありませんでした」 「頼久さん、急に、どうして……?」 頼久はあかねの身体を自分からすっかり離すと、一度、唇をグッと噛み締めた。 「私もただの男だということです。それもつまらない男なのです。嫉妬のあまり神子殿に……いえ、これ以上何を言ってもいい訳に過ぎません。本当に申し訳ございませんでした」 「頼久さん、でもっ」 「できることなら……どうか、お忘れください」 頼久は深く頭を下げると、踵を返した。 「待って!忘れないです。私、忘れません。だって絶対に忘れられない!」 あかねの泣き叫ぶような声に頼久の足が止まる。 あかねは思わず頼久に駆け寄っていた。 「私、頼久さんのことが好きです。だから京に残るって決めたんです。頼久さんが、私のことどう思おうと、好きでいることに決めたんです」 「っ……神子殿」 「好きなんです。あなたじゃなきゃ、頼久さんじゃなきゃ、駄目なんです、私、わたし……」 目の前のあかねの頬に、涙がとめどなく流れてゆく。頼久はたまらずあかねを、再び自分の胸へと抱き寄せた。 「神子殿っ。どうか聞いていただけませんか、私は……」 神子殿、私は、臆病者でした。 私はずっと以前より、そう、あなたが私を見た、その日から。 神子殿、私はあなたをお慕いしておりました。 しかし、あなたに気持ちを悟られることを怖れていました。そして己のことも騙し続けていたのです。 いずれ、元の世界へ戻るお方。それは十分過ぎるほどにわかっていました。そして、その日が近づくにつれ、私はますます臆病になっていきました。 一度、想いを認めてしまえば、あなたを求めずにはいられないと。そうなれば、もう、あなたの傍にはいられなくなる。それが、怖かったのです。あなたを失うことが怖かった。 けれど、あなたを見れば、あなたを思えば……もう自分の気持ちを抑える自信などありませんでした。 だから、あなたを避けていたのです。 それが、どんなにあなたを傷つけているかなど、思いもせず。ただただ、自分の身の可愛さに。 けれど、神子殿、それでも私はあなたを。 頼久が姿勢を整え、あかねを見つめた。 そして、ゆっくりと口を開いた。 「神子殿、お慕いしておりました」 「頼久さん、それ本当?」 頼久はしっかりと頷く。 「撤回とか無しですよ。私忘れませんからね」 「承知しております」 「だって」 ―― あなたでなくちゃ駄目なんだから その後も、あかねは何度も何度も「本当に?本当に私でいいんですか?」と聞いてきて、それは頼久が唇を塞ぐまで続いた。 最後の決戦も無事に終え、あかねは今、頼久と暮らしている。 頼久は隣で眠るあかねの顔を見つめながら、時折、これまでのことを思い出すことがある。 あかね…… 何度、あなたのことを諦めようと思ったことでしょうか。 主であるあなたに恋心を抱くなど、そんな自分を恥じ、戒めようと私は努力しました。 ですが、己の心を止める術など一つもなかった。あなたを求める心の前では、鍛錬など何の役にも立ちはしなかったのです。 それほど、私は、あなたを欲していました。 そして今、隣にはあなたがいてくれる。 私はあの頃、臆病でしたね。 そんな私を強くしてくれたのは、あかね、あなたなのです。 あなたに出会って、私は変わった。 あなたが変えてくれたのです。 あの時、桜の木の下で泣きながら何度も私に口づけをねだったあなたは子供のようだった。しかし、その後、急にあらたまって…… 「私の名前は元宮あかねと言います」 そう言ったあなたは、ひどく大人びて見えました。 あの日のことは、今もなお鮮明に心に残っています。 あなたの声、泣き顔、そして笑い顔……その全てが。 けれど不思議なことに、一つだけ、どうしても思い出せないことがあるのです。 それは…… 「あなたでなければ駄目なのだ」 そう言ったのは、神子殿・・・・・・私の方ではなく、本当にあなただったのでしょうか?
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