あかねが気を失っている間、ずっと抱きしめていたのは頼久だった。
頼久は己自身を抜くと、あかねをまるで壊れ物のようにそっと自分の胸に抱き、ずっと堪えていた涙をこぼした。
神子殿、ああこの世で一番愛しい人、最愛の人。
私はとうとう貴女を壊してしまった・・・あなたの身体のみならず心まで砕いてしまった。
惜しむように自分の腕からあかねの体を解放し、ゆっくりと夜具の上に横たわらせる。
夜着を着せ、額の汗を拭き、髪の乱れを直した。
それからしばらくの間、頼久はあかねの寝顔を見つめていた。
「神子殿、あなたは明日、帰られるのですね。私の知らない世界へ・・・」
---神子殿、やはりあなたの未来は京には無いのですね。
あの日、あなたに出会い、私は初めて心を開くことができました。
あなたを見ているだけで幸せだった。
あなたをお守りすることが私の生きがいだった。
あなたが幸せならばそれで満足のはずだったのです。
神子殿、愛しい私の主。私は未熟者です。あなたに忠義を誓ったはずなのに・・・いつしか私はあなたを求めていたのです。あなたに己を刻み込みたかった。
神子殿・・・お慕いしています、心から。たとえ、この想いがかなわなくとも。
そう、私の想いがかなわぬことなど、そんなことはどうだっていい。
ただ、ただ忘れ去られることだけが怖かったのです。
あなたの心から消されてしまうことに、私は・・・・・・私は耐え切れなかったのです。たとえあなたを傷つけようと、たとえこの身が消え去ろうとも、忘れてほしくなかったのです。
あなたを壊してでも私を、私の記憶をあなたに刻みたかった・・・私を・・・永遠に・・・あなたに・・・
「ん・・・」
くぐもった声を出してあかねが目覚めたことを頼久に知らす。
頼久は慌てて涙をふき、歯を食いしばる。そうしていないと、今にもその場で土下座し、泣き出してしまいそうだった。
「頼久・・・さん?」
あかねが起き上がろうとする。が、その瞬間、
「いっ、痛っ」
あかねの下半身に痛みが走った。
「神子殿っ」
思わず叫んでしまった頼久の顔は苦渋に満ちていた。
痛みと共にあかねの中に全ての出来事が蘇る。
その顔に怒りとも諦めともつかない表情が浮かんだ。
「頼久さん・・・どうして・・・どうしてなの?」
あかねのその問いに、頼久はグッと拳を握り締め、搾り出すような声で応えた。
「私も男ですので、今宵のようなこともございます」
・・・えっ
あかねは自分の耳を疑った。
しかし頼久の顔には表情がなく何も読み取れなかった
「あ・・・はっ、それだけ・・・。そっか・・・そうなんだ・・・」
感情のかけらもない、あかねの言葉。怒りすら通り越し、全てを失った者の声。
その声に頼久は顔を伏せ、体を震わせ耐えていた。それでもあかねの顔を見ると、どうしても涙がこぼれ、もう自分を律することは不可能だった。
頼久は体中にためていた息を吐き出すと、もう一度全身に力を込める。
「っ、それでは私はこれで・・・」
頼久は立ち上がる、がしかし足は言うことを聞かず、すぐにその場に立ちすくんでしまう。深く息を吸い、そんな己自身に叱咤する
---早く行くのだ、これ以上神子殿を傷つけてはならない。
お前は何を待っている。
この期に及んで神子殿の言葉を待っているのか。
お前にはもう神子殿の言葉を貰う資格などない。
否、お前はもうこの世に生きる資格などないのだ。
愛する人を、我が愛しき主を傷つけ、いたぶり、壊したお前に未来などない。早くここを立ち去れ・・・神子殿をこれ以上傷つける権利などお前にはない。
さあ早く。
とめどなく流れる頼久の涙にあかねが気づいた。
「・・・頼久さん?」
頼久は応えなかった。ただ僅かに肩を震わせ己を律しようと努めていた。
頼久さん・・・・・・泣いてる?
じゃあ、やっぱり、あの言葉も夢ではなかったんだ。
頼久さんは私のことを愛してくれてたんだ・・・それも心から。
でも、私が主だったばっかりに自分の中に押し殺してたんだ・・・
本当に嘘の下手な人。
辛かったけど、あんなことをさせてしまったのは・・・私なのかもしれないな・・・そう思うとあかねは頼久を責めきれない気持ちになった。そして頼久のこんな不器用なところを好きになったのだと気づいた。
---本当にこの人は嘘だけでなく、生きるのも下手な人なんだな。
・・・・・・え!?
自分の考えにハッとする。それから確信した。
この人はきっと覚悟してる。
この人にとってこのまま生き続けるなんてことは到底できない。
主である私を傷つけた自分を許すことなんてできやしないだろう。
じゃあ。頼久さんは、最初から死ぬつもりで今夜・・・私を・・・
「頼久さんっ!!」
---駄目、死んでは駄目。私の前から消えないで一人で行かないで。
あかねは思わず大きな声を出した。頼久の体がビクっと撓る。
「頼久さんっ、私、あなたを愛しています。ずっと・・・愛してました」
それでも何も答えようとしない頼久に、あかねは痛む体をおして立ちあがりその背中に抱きついた。今もなお欲して止まないあかねの肌に、頼久の体が震えた。
「っ・・・神子殿っ。なりません」
「頼久さん、やっと喋ってくれましたね」
「離れてください。私など神子殿とお話する資格などございません。私は・・・私は神子殿を傷つけました。主を傷つけるなど許されない。離れてください、早く」
頼久は一息で言うと、深く息を吸った。
「私のこと、まだ主だと言ってくれるの?」
「神子殿・・・」
「・・・・・・」
「武士が一度、忠誠を誓ったかぎり死ぬまでお仕えするのが真です。ですが・・・ですが、私は・・・」
再び沈黙に包まれた。
その沈黙の闇に一点の光を通したのはあかねの言葉だった。
「では、命令します。源 頼久、私の許しもなく死んではなりません」
頼久は驚愕し、後ろを振り向く。
そこには頬を涙で濡らしたあかねが震えながら立っていた。
「み、神子殿、どうしてそれを・・・」
「頼久さんは不器用なんです。だって嘘が下手なんだもん・・・わかっちゃうよ」
あかねは無理に笑顔を作る。
「で、命令は聞いてくれるんですか?」
泣き笑いのような顔であかねがそう言うと、頼久は跪き頭をたれ
「っ・・・・・・み、神子殿っ」
頼久が何か言いた気に口を開いたが涙のせいで声にはならなかった。
あかねも無言でゆっくりと床に膝をつくと、頼久の頭を体ごと抱きしめた。
「神子殿っ、私は、私はっ・・・」
「さあ、もう顔をあげてください、頼久さん。少し眠りましょう・・・朝まではまだ時間がありますよ」
あかねは布団に入ると頼久を隣に寝るように手招きした。
「ですが、神子殿」
「これも命令ですよ」
あかねがとびきりの笑顔を見せる。
「さあ、早く。頼久さん」
頼久は呆然としながらも神子の隣へ体を滑り込ませる。
あかねは頼久を優しく抱きしめ、その黒髪をそっと撫でた。
頼久はそんなあかねの心に触れて思わず子供のように声をあげて泣きだしてしまう。
「神子殿、神子殿っ・・・あなたは私を許してくださるのですか・・・」
あかねはそんな頼久を愛しく感じ、耳元でそっとつぶやく。
「頼久さん、私・・・・・・明日、向こうの世界には帰りませんから。ずっとここにいます。頼久さんが嫌だと言っても、あなたのそばを離れません。これからもずっと、ずっと守ってください。私を愛してくれませんか?」
「神子殿っ」
「駄目ですか?」
「神子殿、この源頼久、いつまでも、永久にあなたをお守り致します。ずっと、ずっと、お慕いもうしておりました」
あかねが何も言わず頼久の頭をにギュっと抱きしめると、頼久は不安げに顔をあげた。そこには包み込むようなあかねの微笑みがあった。
頼久はまるで自分があかねの赤子になったかのような錯覚に陥る。そしてその思いを正直に告げると、今度はあかねをしっかりと、そして優しく自身の胸に抱きしめた。
「赤子?」
「ええ」
「赤ちゃんがお母さんを抱きしめるなんて変ですね」
「そう、ですね」
あかねがクスクス笑った。頼久もつられて微笑する。
ああ、自分は本当はずっとこうしたかったのだ。
あなたを自分のものにするなんて、そんなことは何の意味もないことだったのだ。ただあなたを感じたかった。あなたに微笑みを返したかった。
守られているのはいつも自分のほうだったのだ。
神子殿は母親のような愛でいつも自分を包んでいてくださった。
いつまでも、いつまでもこうしていたい。いつも、あなたに抱きしめられたい・・・ただ、あなたを抱きしめていたいのです・・・
頼久は心地良い眠気に誘われ、あかねを抱いたまま眠りに落ちていった。
頼久さん?
・・・眠っちゃったのね。
ねえ、頼久さん、私、あなたを本当に愛しているんだよ。
愛して、いたんだよ。
だから・・・・・・
私たち、ずーっと、ずーっと、永遠に一緒にいようね。
でも・・・・・・もう、前のようには・・・・・・
やっぱり元には戻れないよね。私、そしてあなたも。
それでも愛しあう者は離れてちゃダメなんだよね?
そうでしょ?
そうだよね、頼久さん・・・・・・
頼久さん、ずっと一緒にいようね。
あかねが頼久の懐を探り、小さな入れ物を手に掴んだ。
「これで私たち一緒にいられるね」
あかねは小さな声でそう呟くと、その中身を一気に口に含んだ。
と、おもむろに頼久の唇に自分の唇を重ねる。頼久の口の中に少しずつ液体が流れ込み喉をつたってゆく。半分眠っていた頼久は何事もなくそれを飲み込んだ。
あかねは少し微笑むと自分自身もまた半量残ったその液体を飲み干した。
いつの間にか雨はすっかり止んで、じきに朝が訪れようとしている。
うっすらとした意識の中で、頼久はあかねの声を聞いていた。
頼久さん、これからはずーっと一緒よ。私たち離れられないの・・・・・・
あぁ、神子殿、愛しい人。今、何て仰ったのですか・・・
雨の音でよく聞こえないのです。
ですが、何故かとても暖かい気持ちです。神子殿、あなたはとても暖かい。
あぁ、神子殿、永久にお守り致します。
二度と悲しい思いはさせません・・・・・・永遠に・・・・・・
二人は抱き合ったまま深い眠りに誘なわれていった。
時に愛は、大事な人を傷つけてしまう・・・・・・
幸せそうに微笑む少女を、男は優しく胸に抱いていた。その男の口元にも笑みがこぼれている。傷つけあうことのない世界に生きる二人のその姿を、もう誰も見ることはできない。
もう二度と。
雨上がりの朝の庭からは、夏の熱を孕んだ風が強く強く吹いていた。
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