君とひとりぼっち



 ――306##…



 友雅が指を離すとほぼ同時にロックが解除され、マンションのエントランスの扉が静かに開いた。あたりまえのように中へと入ると、次はエレベーターのボタンを押す。

 この世界に来たばかりの頃は驚きを隠せなかったこれら全てのことを、今では、ごく自然にやってのけていることに友雅自身ですら気づいてはいない。
それくらい今の生活は友雅にとってあたりまえのことになっていた。


「ただいま、あかね。遅くなったかな?」


 急いでドアを開けながら部屋の奥に向かってそう言うと
すぐにあかねの声が聞こえてくる。

「も〜、すんごい待ったぁ〜」
「ごめん、ごめん。仕事のキリがつかなくってね」

 なだめるように、しかしあかねの反応を楽しみながら、キッチンへ向かうと、手早くコーヒーを淹れた。

「あかね、君も飲むかい?」
「んー、いいや。もう遅いしね」
「それもそうだね、眠れなくなると困る……だろう?」
「あっ、友雅さん、私のこと子供扱いしてるでしょう?」
「ふふっ、そんなことないさ。君は素敵な大人の女性だよ」
「またからかって〜。もう、おだまりィ」

 友雅は、あかねの笑い声を聞くと、疲れていた体が軽くなるような気がしていた。


……あかね、君は本当に素敵な女性だよ。


 カップにコーヒーを注ぎ、それを手に持ちながらリビングの灯りをつける。
いったんカップをテーブルの上に置いて、ソファーに座ると
カバンの中から何冊かの本を取り出し、それもテーブルに並べた。
 そして、またあかねに声をかけた。

「今日は何をしていたんだい?」
「んっとね。今日は久しぶりに学校の図書館に行ってみたよ」
「楽しかった?」
「あー……はじめは、いざ読書!とか思ったんだけどね」
「眠ってしまった。違うかい?」

 友雅の発言は、まさに図星で、あかねは小さな声で「そうだよ」とつぶやく。

 その後も、自分が何故、図書館に行くと眠ってしまうのか。
それは決して自分のせいではなく、図書館が静かすぎるのがいけないと、あかねは一生懸命に友雅に向かって説明を繰り返すのだが……あかねの話に熱が入れば入るほど、友雅は笑いがこみあげてくる。
 いつもなら、こんなふうに友雅が笑えば、「真剣に聞いてよ」と
食ってかかってくるあかねが、今日は図書館の悪しき習慣を語ることに忙しいらしく、「まず第一に…」などと自分の話に熱中していた。
 あかねが「そして第五、それはね」と言いかけた時、とうとう友雅は口を挟んだ。

「あかね、君がどれだけ図書館を憎んでいるかはよくわかったよ」
「え?ああ、わかった?ほんっとにつまんない所だよね」
「そうとも言えるかもしれないね」


 そうさ、あかね、君と一緒にいることと比べれば、どこだってつまらないよ


「でさ、友雅さんは今日は何してたわけ?」
「私かい?ふふっ、私はそのつまらない場所に篭っていたよ」
「え、まじで!?」

 友雅はうなづくと、ほら、と言ってテーブルの上に並べていた本をあかねに見せた。
目の前に広げられた何冊かの児童書をめずらしそうに開いてゆく。

「人間、変われば変わるもんだね」
「あかね、それはどういう意味かな」
「だって、人にものを教えるのが嫌いだった友雅さんがさぁ、今はねぇ・・・」
「今は、何だい?」
「教える立場にいるんだもんねぇ、しかも子供相手に。考えられないよ」

 あかねは、なおも「変わったよね、信じられない」と言いつづける。

「それは……成長したとは言ってもらえないのかな」
「ま、そういう言い方もアリだよね」

 そう言いながら、あかねは一冊の本に手をとめた。

「人魚姫……かぁ」

 おや?といった感じで友雅があかねの顔を見つめる。

「知ってるのかい?」

 あかねはその本を元の場所に戻すと、「知ってるよ」と、唇をとがらせた。



「知ってるよ。世界で一番有名な海のお姫様だよ」










「……でね、結局、王子様は近くにいる人魚姫には気付かなくて、自分を助けてくれた愛しい人にはもう会えないと思って、他の人と結婚しちゃうんだ。それを知った人魚姫は全てをあきらめて、約束通りに海に飛びこんで、泡になって……消えたの」


 あかねは友雅に「人魚姫」のあらすじを説明した。


「そういうお話だったのか」

 友雅がひとつため息をもらす。
 
 そして「それは悲しいね」と言いかけたが、あかねの方が一瞬早かった。

「そう……本当に愚かな話だよね」

 あかねの言葉に、友雅はいささか驚いた。
ロマンチックで、悲しい恋物語りを思い浮かべていた友雅には
あかねの口から「愚か」という言葉が出てくるなどと思いもしなかった。

「愚か……かい?誰が?この人魚がかい?」

 まるで子供のように疑問形ばかり並べている自分に苦笑しつつも、あかねがこの物語を愚かだと言う訳を聞きたくてしかたがない。

「うん、愚かだよ。人魚も王子も、どっちもね」

 あかねは、ちらっと友雅の表情を伺ったが、そのまま続けた。

「人魚姫は、声を失うことにも耐えたし、脚を作ってもらう痛みも我慢したんだよ」

 また友雅を見る。その視線に友雅は黙って頷いた。

「しかもさ、恋が破れた時、約束通りに海の藻屑にもなった……でもね、そんなことまでできる彼女は、王子様のために自分を犠牲にすることすらできた彼女は肝心なことができなかったの……だから愚か」

 友雅が怪訝そうな顔であかねを見た。

「肝心なことって、何だい?」

「んー……彼女には勇気がなかったんだよ。本当の自分のままで、彼に想いを伝える勇気がなかったんだよ」

 ポツリと言ったあかねが友雅は愛しかった。
 少しの間、黙っていたあかねが再び口を開く。

「それに……王子様だって、他の人と結婚なんてするべきじゃなかったんだよ」
「だけど、彼は他の人を選んだね」
「……うん」
「それが愚かなことかい?」
「選んだその人を本当に好きなら愚かじゃないよ。でも彼の心は人魚姫にあったんでしょう?だったら、たとえ人魚姫と会えなくても、想い続ければよかったんだよ。心の底から他の人を愛せるまでは、自分の信じた人を想ってたほうがいいんだよ」

 大きな声で、そう言い放つと、あかねは口を噤んだ。







「あかね、私は今も君を愛しているよ」

 友雅が突然つぶやく。

「ごめん、友雅さん」
「謝ることなんかない。それに私は愚かな男ではないだろう?」
「うん……魂だけになった私にちゃんと気付いてくれたしね」
「だって私は君を愛したからこの世界に来たんだよ」

 そんなことはあたりまえだと友雅はあかねに軽く微笑みを返す。

「そうだけど、でも寂しくない?友雅さん……いつも一人で」
「寂しくなんかないさ。いつも一緒だからね、ちがうかい?」



 ―――寂しくなんかない、それは本当でほんの少し嘘だ。
 最愛の人を失って、寂しくない奴なんていやしない。
 だけど、あかね、君は本当にいつでも傍にいてくれる。だから、本当のことと、ほんの少しの嘘を言ったよ。ちょっとくらいの嘘ならばいいと、でも、それも全て君には・・・わかってしまうような気もする。



「ねえ、友雅さん……キス、したいね」
「ああ、とてもね」
「友雅さんからはできないから、私からしてあげる」
「姫から口づけを受けられるとは光栄だね」
「もうっ、ふざけないで。ね、ちょっと黙って」


 ほんの一瞬、友雅の唇にあかねの感触が蘇える。
 それは羽がかすめるほどの静寂さと、なのに全てを呼び起こすほどの強さで。



 愛しているよ、あかね。
 君への想いは真実の愛だったんだ。いや、それは今も続いてる。
 愛とは決して思い出になんかできやしない。誰しもが必ず、誰かを愛せるというわけでもないんだ。
 そうさ、私は君という愛を手に入れた幸運な男だよ。



「ねえ、あかねもう一度聞いてみないかい?寂しくないかって」
「どうしてぇ?」
「実はさっき、少しだけ嘘を付いたからね」
「えっ、ひっど〜い」
「だから、もう一度。今度は嘘はつかないって約束するよ」

 あかねは、友雅から返ってくる答えが、本当のことだと言う・・・その答えが、自分を拒絶するものかもしれないと思うと、それが恐くて、なかなか声が出せない。

「聞いてはくれないのかい?」
「え……あ、うん……じゃあ……」

 あかねの神妙な顔とはうって変わって友雅は顔に笑みすら浮かべている。
 あかねは大きく息を吸い込むとギュっと目を閉じて一息に言った。

「友雅さん、いつも一人ぼっちで寂しくない?」




「寂しくなんかないさ」




 おそるおそる目を開いたあかねの耳に入ってきた返事は、さきほどとまるっきり同じ言葉だった。

「え?さっきと同じじゃないの。ちょっと、どういうことなのよーっ」
「同じだけど、違うんだよ、あかね」
「ええ?何それ?もうっ、本当に訳わかんないんだから」

 本当だよ、あかね。
 君を愛していると知った私は、君を愛することのできる私は寂しくなんかないんだよ。

 そうさ、ちっとも寂しくなんかない。

 いつも君はそうして私の傍で笑って、怒って、時には泣いてみせたりして。
 それは君のお得意の泣き真似だったりもするけど。そして、その度に本気にして、ついうろたえてしまったりもするけど・・・そんな君の全てが愛しい。

 だから寂しくなんかないよ。


 一人ぼっちは寂しいさ。
 でもね、あかね、
 君と一人ぼっちだから、寂しくなんかないんだよ。

 そして、いつか私の体がこの世から消えても、君を愛する想いだけは、永遠に消えはしないんだ。

 そう、また君に気付けるようにね。

 君がいるかぎり愚かな男にはなりはしないよ、あかね……決してね。



[おわり]