| 雫 | |||
「友雅さん・・・・」 愛しい人の唇から告げられれると、自分の名前すら神聖なものに感じてしまうから不思議だ。 「友雅さん」 そっと伸ばされた手に、指をきつく絡める。 波にさらわれないように。時に流されないように。飛び立ってしまわぬように。 「何だい?」 手の平から温かい体温が伝わってくる。 確かに彼女はすぐそばにいる。指先を少し動かしさえすればその肩を抱けるくらいに。 「ん・・・・呼びたかっただけ」 しかし、友雅には微笑んでいるであろう彼女が見えなかった。 「いよいよだね神子殿」 「・・・・・はい。いよいよですね」 いよいよ・・・そう明日は最後の闘いの日。 あかねがこの世界で過ごす最後の日。 たったこれだけの会話で、しかも天気の話でもするかのような穏やかな声だったが、二人が何を想いあっているのか、そしてそれがどういう末路を遂げるのかまで、傍にいた藤姫や女御にも、ひどく容易に理解できた。 そして互いを見つめ合う視線に痛いほどの熱を感じ、友雅とあかねだけを残し部屋をあとにする。 静まり返った部屋でただ二人は黙って見つめあっていた。 御簾越しに流れる涼やかな風があかねの柔らかな髪を揺らす。その全てが夕闇に包まれた頃、衣擦れの音が流れた。 あかねが右腕を伸ばし、その指先で友雅の髪に触れる。 「何を考えているんだい?」 指を髪から離すと、膝立ちになり両手で友雅の頬を包み込む。 「きっと友雅さんと同じことだと思う」 頬に寄せられた小さな手から身体全体に確実に熱は広がってゆく。 「神子殿・・いや、あかねは怖くはない?」 その熱を閉じ込めたくて小さな手に自分の手の平を重ねた。 「うん・・・怖くない、だって・・・」 「だって・・・・何?」 あかねの睫が忙しなく動き、ほのかに紅く染まった頬に影を落とした。 「だって、私は16年間ずっと友雅さんを待ってたって思うから」 友雅はあかねの手首を掴むと、自分のもとへ引き寄せ、自らも膝立ちになり優しく抱きしめた。 彼を見つめるあかねの瞳が輝く。 瞬きするのも惜しいと言わんばかりに、強く見つめるあかね。 友雅もまた自分の瞳に、それから唇に、全てを記憶しようと、あかねの額に、その瑞々しい頬に、わずかに震える瞼に、口づけを落とした。 あかねは思わず友雅の胸に頭を押し付けて肩にしがみつく。 友雅の長い指が髪を梳き、うなじをつたい脈打つ首にまわり、顎に添えると、下を向いてしまった愛しい顔を自分に向かせた。 「顔を、ちゃんと顔を見せてくれなくてはいけないよ」 その言葉に何か言いかけたあかねの唇は友雅によって全ての音を閉じ込められた。 背に友雅の腕が回され少しずつ下へと指が這う度に、あかねは予期していなかった熱い震えに襲われる。 自分の腕の中でわずかに頭をのけぞらし、瞳を閉じ身を任せる彼女の姿・・・友雅はこれ以上ないほど愛しく暖かい思いで満たされてゆく。 小さく喘ぐ唇を奪うと、二人は口づけたまま横たわった。 友雅の体が、ぎこちなく動くあかねの腰に重くのしかかる。 これから彼女が経験する・・・友雅には生涯知ることのない痛みを考えると、できるかぎりの優しさで包んでやりたいと思う。 だが、自分の脚の間であかねが動く度に、不慣れな手付きで自分に触れる度可愛い唇が自分の名前を囁く度に、どうしようもないほどの欲望に溺れてゆくのも、また事実で、彼女を奪いたいという本能に逆らえずにいた。 あかねの脚の中心に指で触れると、そこは既に自分を受け入れる意思を持ち、友雅の指を際限なく湿らせてゆく。 「んっっ」 思わす洩れたあかねの声に友雅の心が一瞬怯んだ。 ・・・このまま抱いてしまっていいのか 自分の欲望のためだけにあなたの全てを奪ってもいいのだろうか。 あなたと出会えたこと。 半ば死んだように生きていた私に、再び命を吹き込んでくれたことだけで何故満足できないのだろう・・・ だけど、あかね・・・私の愛しい人、 愚かな男だと笑ってくれてもいい・・・ 私はあなたが欲しいよ。どうしようもない程にね。 友雅は自分の迷いを吹き飛ばすかのように激しくあかねに口づけた。それは果てしないほどに続き、あかねは空気を求めてあえいだ。 「と、友雅さん・・・・どうしたの?」 あかねは友雅の表情の翳りを鋭く見抜いた。 「あかね、私はあなたを奪いたい」 友雅は動きを止めて真っ直ぐにあかねに瞳を向ける。 「・・・奪って」 あかねの腰を掴む友雅の両手に力がこもる。 「あなたを壊してしまうかもしれないのに?」 あかねは少し顔を上げると、彼を包み込むような笑みを浮かべた。 「大丈夫、壊れたりなんかしない」 あかねの言葉に友雅も微笑む。 ・・・いっそのこと壊してしまえれば・・・あかね、あなたはもう何処にもいけなくなって、このまま永久に、この腕の中にいてくれるのか・・・ 声にすることのない思いを、現実になるすべもない思いを、その全てを飲み込んで、友雅はあかねの最奥へと進んでゆく。 二人がひとつになってゆく。 これまで別々であったことが何かの間違いだったかのように。 砕け散っていた心の欠片をつなぎ合わせるように。 あかねは声が洩れないよう、きつく唇を噛み締めていた。 しかし、その瞳は閉じられることなく友雅を見つめる。友雅もまた全身にあかねを感じながら、それでも貪欲に彼女を求める。 友雅さん・・・あなたをもっと教えて。 あなたの全てを私にちょうだい。 痛みなんてどうでもいい。壊れたっていい。 私を見て。 私を覚えていて。 私の全てをあなたに刻みたい。 だからもっと。 私たちには今しかないから。 次にめくるページはもう一枚もないから。 自分の下で輝いていた彼女の瞳がキツク閉じられ、そして、時が止まったように息を詰まらせ、再び大きく吐き出す姿を、友雅はじっと見つめていた。 やがて友雅自身にも至福のような開放感が訪れる。 こんな気持ちは・・・・まるで死と再生のような、激しさの後に魂を癒されるような優しさを感じたのは初めての経験だった。 あかねの、まだ汗の光る額にそっと口づけると、僅かに震える身体を自分の胸に包み込んだ。 「ごめんなさい・・・私・・・」 顔をあげて言いかけるあかねの唇に友雅は指をあてた。 「その先はどうか言わないでおくれ」 あかねは返事の代わりに再び、友雅の胸に顔を押し付ける。 ごめんなさい・・・か。 同じことを言うのだね・・・私の母と。 あかね、あなたが私に謝る理由もまた母と同じなのかい? あなたは、私の気持ちに応えられないことを謝っているのではないね・・・きっと。多分、いや、きっと・・・ただ私を愛したことを、そう、愛したままで、一人、自分の世界に戻ってしまうことを・・・ 私の母と同じように・・・死にゆく自分が私を愛せなくなることではなく、その命が消えてもなお愛し続けてしまうことを謝ったようにあかね、あなたの愛が私を苦しめてしまうことを謝ってくれるのかい? 愛し続けたまま・・・そして私を一人残すことを。 もしも、そうならば、謝る必要などないよ。 その気持ちは私も同じだからね。私も、あなただけを、この命が消えてもなお・・・あなただけを 「愛しているよ・・・あかね」 喉の奥がつまり、友雅の言葉は途切れ途切れの囁きとなった。 友雅の腕を掴むあかねの手が一瞬こわばる。 「友雅さん・・・・」 あかね・・・どうしてそんなに小さな声を出す・・・ 「友雅さん・・・・」 何故だかあなたが遠くに感じるよ、あかね。 こんなに、肌が触れ合うほど近くにいるというのに。 「何だい?」 そっと伸ばされた手に、指をきつく絡める。 波にさらわれないように。時に流されないように。飛び立ってしまわぬように。 「ん・・・・呼びたかっただけ」 あかね、あなたはきっと今笑っているね。 でもその顔が見えないんだ。 あなたの顔を、その瞳をもう一度見たい。 だけど、あなたが見えない。何かが邪魔をするんだ。 それは涙じゃないよ・・・・私が泣くはずなどないのだからね。 涙などでは決してない。 「友雅さん・・・愛してる・・・・」 あかねが両手で友雅の頬を包み込んだ時、一粒の雫があかねの指を濡らした。 「友雅さん」 もう一度呟くと、あかねは友雅の髪を優しく撫でた。 あかねの唇から放たれる自分の名前が、まるで祈り言葉のように友雅の耳に流れてくる。 「あかね・・・」 友雅も搾り出すように、愛しい人の名を呼ぶ。 「なあに?」 「いや、ただ呼びたかっただけだよ」 ・・・さよなら、愛しい人 二人の頬を伝う雫は、今はとめどなく流れ、互いの胸の奥に小さな水たまりを作ってゆく。 ・・・さよなら、友雅さん この水たまりはこれからも日毎に水嵩を増してゆくだろう。 いつか・・・遠くない未来に・・・・きっと溺れてしまうほどに。 しかし、それでもいい、それもまたいいと、二人は目を閉じた。 ・・・溺れるほどに愛した記憶は、もう二度と誰にも消せない、きっと。 気付けばあたりはすっかり闇に覆われて、月さえも見えなかった。
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