「明日にすればよかった……」
泣きそうな顔で大きなため息をついているのは、龍神の神子と呼ばれ、時には崇め奉られることさえある少女、春日望美。都で話題をさらったその龍神の神子様が、大きな樹の幹に背をもたれ、情けないため息を付いている……などという姿を想像できる人間は、そうそういないだろう。
「別に今日じゃなくたって、よかったんだよね」
望美は誰に言うでもなく、そうぽつりと呟いた。手のひらで持て余し気味に転がすのは、この世界では珍しい小さな菓子だ。それは、昨日、望美の幼馴染である将臣がどこからか手に入れてきたものだ。望美は将臣からいくつか菓子を受け取ると、真っ先に銀に渡すことを思いついた。
これ、銀にあげよう!
銀がこういった甘い菓子を好むのかどうかも知らないくせに、望美は自分の思いつきに胸を躍らせた。
だが、あいにくそれを思い出したのは、この屋敷に来ていた銀が帰ってすぐのこと。きっと銀は喜んでくれるに違いない…・・・そんな奢りに近い気持ちがあったにもかかわらず、望美は話に夢中になってうっかり渡し忘れてしまった。
「しまった!」
銀はたった今、部屋を出たばかりだ。
もしかしたら、間に合うかもしれない。明日も会えるけど、でもやっぱり早く渡したいもんね。
廊下を駆けてゆく龍神の神子に、屋敷に仕える者たちは何事が起きたのかと目を丸くしたが、望美はぶつかりそうになる度に、「すみません!」と叫んで駆け抜けた。
そうして、全速力で銀を追いかけてきた望美だが、高館の屋敷の門を出てすぐのところで、いきなり足を止めてしまった。そして何を思ったのか、近くに樹を見つけると、その樹の後ろへとまわった。
こうして今、樹の陰に身を縮め、物音を立てないようにと、こそこそと見つめる視線の先には、目的の人である銀がいる。
今のところ銀は自分に気付いてはいないようだ。望美は、くるりと後ろを向くと、もう一度深いため息を付いた。大声で、名を呼ばなくてよかったと、少しだけ安心する。
「あーあ、やっぱり来なければよかったのかな」
さきほどからの、望美のため息の矛先は確かに銀であったが、その原因となるのは銀自身ではない。原因は、銀のすぐ傍に女の人が立っているという、視線の先にある光景だ。 「でも……あの人…・・・誰なんだろ?」
それは、立っているというよりも、銀が立たせてあげたと言ったほうが正しいかもしれないが、実際のところは望美にもわからない。なにしろ、銀を追いかけて屋敷を飛び出した望美が見た時には既に、その女の人は銀に手を取られ立ち上がるところだったのだから。
よく見れば、その人は何度も何度も銀に頭を下げている。声は聞こえてこないが、表情からして銀に感謝しているように見えた。
誰なんだろう?銀の知り合いかな……
一見したところ、どうにも親しいといった感じには見えなかった。たとえ想像通りに銀の知り合いだったとしても、別に声をかけるくらい問題ないだろう。そう自分でも思うのだが、銀がその人を助けている光景を見た途端、望美の足はすくんでしまったのだ。そして、同時に、「なんで?」という思いが望美の中で広がった。
――何でその人と一緒にいるのだろう?何でその人を助けるのだろう?
目の前で人が困っていたら、自分だってもちろん助ける。たとえ知らない人であっても。
そうだ、そうやって頭では理解している。それなのに、心の中ではいつまでも「なんで?」という思いが渦巻いているのだ。
「あー、もうっ」
その思いを振り払うように、もう一度大きく息を吐いた。
ふと、後ろを見ると、そこにはもう銀の姿はない。女の人がひとり、大きな荷物を担いでゆっくり歩いていた。
……人助け。冷静に考えれば、ただそれだけのことだというのに、相手が女の人というだけで、こんなにも苛々してしまう。そんな自分が嫌だったし、こんな感情はこれまでにあまり馴染みのないものだったので、望美にはどう対処すればいいのさえ、わからないでいた。口を開けば、文句ばかりが出そうなそんな気分だ。
「嫉妬……なのかなぁ、やっぱ」
そう認めたくないような、釈然としない気持ちのままで、望美は屋敷へと戻っていった。
――結局渡せなくなっちゃった……
知らない間に、きつく握り締めていた手を開く。銀に渡すはずの菓子は、表面が少し崩れて不恰好な形になってしまっていた。これでは、明日どころか今すぐだって渡すことはできない。
「食べちゃおう」
望美は文句を言うかわりに、菓子を口に放り込んだ。だが……少しも甘くない。それは、まるで今の望美の気分のようだった。
★
「あら、望美。今朝は早いじゃない」
明くる朝、声をかけられる前に起き出した望美に、まず朔が驚く。続いて、朝食の準備はまだなんですよと、譲が焦った。
「うん、まあ私だってたまにはね」
いつも、そんなに朝寝坊かなー?と思いながら、笑って答えた望美だったが、九郎からの朝稽古の誘いだけは、頬をひきつらせて丁重にお断りをさせてもらった。
朝稽古は無理だよ……だってほとんど寝てないんだもん。
あれからずっと銀のことを考えていた望美は、夜になっても自分の思いを消化しきれずにいた。頭が冴えてしまっているせいか、寝床に入ってからも一向に睡魔は訪れない。かと言って、こんな夜中に誰かの部屋に遊びに行けるわけでもなく、ひつじを数えてもみたが、あまり効果はなかった。一晩くらい眠らなくたって大丈夫だよね。最早、眠ることは諦めた望美だが、それでも身体を休めておいたほうがいいだろうと、横になったまま時間をつぶしていた。この時ほど時間が長く感じたことは無いだろう。そして、結局、途中で少しうとうとしただけで、朝がくるとすぐに望美は布団から起き出した。
「お?早いじゃねえか。気合入ってんなぁ」
いつもは自分よりも後に起きてくる望美が既に身支度を整えているのを見て、将臣は「気合十分だな」と声をかけてきた。
「え?何が?」
気合って?何か気合を入れなきゃならないことなんてあったっけ?
ぽかんとしている望美の顔を将臣も不思議そうな顔で見つめる。
「お前……だって、あれだろ?今日から本格的に呪詛を探すって、はりきってたじゃねえか?」
「あっ!そ、そう……でした」
「おっかしな奴だなぁ」
「そんなことないよ!頑張るよー!」
正直、将臣に言われるまで、望美は呪詛のことなどまったく頭になかった。
――本格的に探すから、みんなも協力してね。
そう言ったのは、つい昨日の朝のこと。
だが、相手が将臣だけならまだしも、周りには朔や九郎もいる。すっかり忘れてましたとは言えず、思わず拳を振り上げる仕草まで見せて、誤魔化してしまった。
「なんだぁ?だから早く起きたんじゃなかったのか?」
「そういう訳でもないんだけどね」
そういうことにしておいたほうがよかったかなぁ?でも、それだと、いつも寝坊していることを認めることになるし……まあ、事実なんだけどね。
望美があれこれと考えているうちに、将臣はさっさと身支度を整えてゆく。冗談交じりの会話は続けたままで、てきぱきと動ける将臣のことを望美は少し尊敬してしまった。
「お、朝飯できたみたいだぜ」
今日も一日、外を歩き回るのだろう。
……銀も、もちろん来るよね。
あまり眠れなかったせいか、望美の頭はすっきりしない。いまだに、銀への複雑な気持ちを引きずっているようで、彼を思った途端に、昨日の光景が再び浮かんだ。
こんなことならちゃんと眠っておくんだった。
今となっては遅い後悔をしながら、望美は将臣の後に続いた。
★
「お足元にご注意くださいませ」
銀にそう言われ、足元を見た望美は、ほんの僅かな段差に気付いた。
「あ、うん、ありがとう」
ぱっと見ではわからない程度、それは多分、一枚岩が割れることで生じたのだろう、よく見れば確かに段ができており、その境目の岩肌は尖っていた。
平泉の各地に埋まっていると思われる呪詛を探し出すため、今日は少し山に入っていた。さほど険しい道ではなかったが、ところどころに大きな岩がごろごろとしている。
「神子様、どうぞ御手を」
「え?」
これくらいの段差など、いつもの望美なら、なんら気にせず見過ごしていたか、もしかしたら少しくらいは躓いてしまったかもしれない。けれど、どちらの結果であっても、それは望美にとって特に頭を悩ませるほどのことではなかった。それでも銀は「足元に注意してください」と、望美を守るために手を差し出すのだ。
この「御手をどうぞ」という仕草のたびに望美は照れてしまう。赤くなった顔を銀から隠すように、下を向くが、それを知ってか知らずか、銀は一向に気にかけない様子で、にっこりと微笑むだけだ。何も言わず、望美が手を差し出すのをじっと待っている。そして、「そんなに過保護にすんなって」という幼馴染の声が飛ぶ頃、ようやっと望美は手を出すのだった。
こうしたやりとりは、昨日今日に始まったことではなかった。こうやって、まるでお姫様のように手を取ってもらいながら歩くのは、望美はもちろんのこと、八葉の面々にとっても最早、見慣れた光景になっている。
けれど、今日の望美はいつまでたっても、銀に手を出せないでいた。
いつものように、恥ずかしいとか、照れるとか、そういう感情が無いとはいえないが、今日はそれだけではないような気がする。なんとなく……そう、なんとなく銀の手を取るのが嫌だった。
「危のうございますので、私の手を握っていてください」
「うん……」
返事はしたものの、やはり銀の手を取ることができない。足も止まったままだ。
初めて銀の手に触れたのは、出会ってすぐの頃だった。望美たち一行を平泉まで案内する道すがら、銀はごくごく自然に望美の手を取り、こう言ったのだ。
「この先は危のうございます。神子様、どうぞ、御手を」
その時触れた銀の手は、柔らかで細く、しかし望美の手をすっぽりと包んでいた大きさは、紛れも無く男の手であった。
――冷たい
望美は初めて銀の手に触れた時、そう思ったことを覚えている。そして、銀のことが気になり出したのも、それからすぐのことだ。
「神子様?」
ふと見れば、心配そうな顔つきで、銀が手を差し伸べていた。
――いけない、いけない。
その顔を見た望美は、自分がみんなのペースを乱していることに気付いた。先頭を歩く望美たちが立ち止まっていれば、おのずと後ろの面々の足も止まる。取り立てて急ぐ道ではなかったが、動きが止まることで妙な空気が流れるのも確かだった。
「しっかりつかまっていてくださいね」
「……うん、じゃあ」
――やっぱり冷たい
……銀の手に自分の手を重ねる瞬間、望美がいつも最初に思い出すのは、子供の頃に聞いた「手の冷たい人は心が温かい」という話だった。
だからきっと銀は優しい人なんだ。
優しいから、だから……この冷たい手で、あの人に触れて、あの人を助けた。
どんな顔して助けたの?お礼言われて、ねえ、銀は何て答えたの?
「神子様?どうかなさいましたか?」
「ん?ああ、ごめんね。やっぱり大丈夫だから、いいや」
望美はそう言うと、銀から手をはなして歩き出した。同じ手だと思うと、どうしても握っていられなかったのだ。
嫌な言い方をしてしまったとすぐに後悔したが、それを誤魔化す言い訳も思い浮かばない。
「えっ……神子様……」
突然のことに、銀が戸惑っているのはわかったが、望美はわざと顔を見ずに、前を歩いた。
銀から離れたいかのように、望美はひとり前を急ぐ。無理をしているため、すぐに息があがってきた。大したことはないと思った道は、見た目よりもずっときつかった。
足元に気をつけろ、と言われただけのことはある。
はあはあと息を上げながらも、スピードを落とさずに歩く望美は、あちこちで足を取られては、ふらついてしまう。途中、いったん立ち止り、後ろを振り返ると、少し離れた位置で立ち止っている銀の視線とぶつかった。その影の向こうでは、九郎たち一行が後ろの方をのんびりと歩いているのが、少し小さく見える。
こんな近くにいたんだ……
「神子様、差し出がましい物言いですが、あまり急がれると本当に危のうございます」
まだ陽も高こうございますと言うと、銀の瞳がせつなそうに細められた。だから急ぐなと言いたいのだろう。
「心配してくれてるの?」
「……ええ、失礼とは存じますが、今日の神子様はお顔の色もあまりよろしくないようですし」
銀は、優しい人なんだ。あんな嫌な態度をとった私なのに、こうして心配してくれる。
望美の頬がゆるむ。今、銀が手を差し伸べてくれたら、すぐさま自分の手を重ねてしまうかもしれない。
「優しいんだね」
自分で言ってはっとした。そうだ、銀は優しい。今だってこんなに優しい目で私を見ている。心配してくれている。だけど、それは私にだけじゃない。……だって銀は優しい人なんだもん。
やっぱり今日は一人で歩こう。少し頭を冷やそう。
そう思った望美が、くるりと踵を返した瞬間、突然視界が揺れた。
「うわっ」
「神子様っ!」
気が付いた時には、望美は銀の腕に抱えられていた。
足元の、ぬかるんだ土に足を取られ、滑ってしまったらしい。地面には、えぐられたような足跡がはっきりと残っていた。
「お怪我はございませんか?」
「平気みたい」
銀は、望美からすぐに手を離すと、少し身体をずらした。 「ご無事で何よりです」
「はあっ……びっくりしたぁ」
「ええ、肝が冷えました」
「あ、あの、助けてくれてありがとう!」
「いえ、私は当然のことをしたまで、ですから……とんでもないお言葉でございます」
今の「ありがとう」は、ちゃんといつも通りに普通に言えたと思う。銀の返事もいつも通りだ。
銀のおかげで、怪我こそなかったが、突然の出来事に望美の頭はからっぽになった。今までごちゃごちゃと考えていたことが、全部ふっとんだように冴えている。
そのからっぽの頭の中に、ふっと「罰」という言葉が浮かんだ。
――そうだ。罰があたったんだ。銀に助けてもらえるのは私だけだって思い上がって、その手が他の女の人に触れてるのを見て嫉妬したりして。その人は困っていたのに。それに、銀はただ優しいだけなのに……
「神子様?本当にどこも大事はございませんか?」
「えっ、あ、ごめん」
銀の声で我に帰る。思わず考え込んでしまった望美の表情を見て、どこか痛むのではないかと銀は思ったようだ。綺麗な顔がしかめられていた。
「平気、平気。なんかぼーっとしちゃったよ」
望美の返事で、銀の顔が和らぐ。
「ねえ、銀?」
「はい、なんでしょう?」
銀は少し首をかしげると、にっこりと微笑んだ。
「私、きっと罰があたったんだよ」
「えっ、突然何を仰います、神子様に罰だなど……」
「わからないけど、きっとそうだと思う」
「私にはわかりません。ですが、どうしてそのようなことを、お考えになられるのですか?」
どうして?と聞かれても、望美には昨日から今日にかけての自分の気持ちを上手く説明する自信がない。それに、自分の嫉妬心を知られたくないという思いもあった。
「うーん、銀を独り占めしようとした罰かな?」 「……神子様」
望美は適当な言葉でその場を濁したが、独り占めしたかったというのも決して嘘ではない。だが、口にした途端、望美は恥ずかしさでいっぱいになった。
「本当ですか?」
「わー、ごめん。今の無しにして!やっぱ恥ずかしいよ」
身振り手振りで、今のは聞かなかったことにしてくれと騒ぐ望美。その耳には、銀の「本当ですか?」という呟きは届いていない。
「なんかごめんね。さあ、もうそろそろ行こうか?」
山道であまりのんびりしてはいけないというのは、望美も知っている。特に怪我もなかったし、痛む箇所もない。そろそろ出発しなくては、陽が落ちる前に帰れなくなってしまうかもしれない。
「ああ、汚れちゃってる」
銀に助けられる寸前に、きっと膝をついたのだろう。膝小僧に少し土がついていた。それに気付き、土を払おうとした望美の手を銀がそっと握り、それを制した。
「えっ……」
銀は、望美の前に跪くと、膝小僧についた土を丁寧にぬぐってゆく。
「神子様……もしも本当に、あなたに罰が当たったのだとしたら……」
火をあてられたように足が熱い。
自分の膝に触れているのは、銀の冷たい手のはずなのに。 「銀?」
気軽に声をかけることすら憚られるような空気に望美の喉はカラカラに渇き、今にも喉の奥がくっついてしまいそうだった。ようやく短い単語を発音するように、ただその名を搾り出して、自分の足元に跪いている銀を覗き込んだ。
「私はその罰の全てを、神子様のかわりに、この身に受けたいと祈ってしまうでしょう。そうしてでも、神子様に自分を……」
「し、銀?何言ってるの?」
「神子様……」
銀が顔をあげた瞬間、後ろから「どうかしたのか」という声が聞こえた。望美はとっさに振り返ろうとしたが、銀から目が離せない。声は、だんだん近づいてくる。
「申し訳ございません」
先に目をそらしたのは銀だ。
銀は立ち上がると、何事もなかったかのように微笑んだ。もうさきほどの表情はそこには無い。
「あ、うん、ありがとう。じゃあ、行こうか」
望美が先を促すと、銀は手を差し出した。
「この先も、まだ険しい道がございます。どうか、私の手をお取りください」
望美はもう、何も言わずに銀の手に自分の手を重ねて歩き出した。
――やっぱり冷たい
重ねた手のひらは、やはりいつもと同じように冷たい。
けれど、ついさきほど触れられた足は、まだ熱を持ったようにじんじんと疼いていた。
追いついてきた将臣とヒノエが、手を繋いでいる姿をみて、「またかよー」と、うんざりしたような顔でちょっかいを出してきたが、望美には返事をする余裕がない。
さっき、からっぽになったと思った頭の中は、今は再び銀のことでいっぱいになった。けれど、もう嫉妬心でもなければ、独り占めしたいなどというわがままのような、小さなことではなかった。
見てはいけないもの。見えないはずのものを見てしまった、そんな恐怖心だ。けれど、これから先、自分が変わってゆくだろうという確信もある。
あの時、顔をあげた銀の瞳は、炎が灯ったような色をしていた。
望美は銀の手の冷たさを感じながら、自分の膝が熱いのは、きっとあの瞳で見られたせいだと思っていた。
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