うららかな午後、楽しげな小鳥の声が耳に届く。まるでそれが合図だったかのように、俺は、それまで開いていた分厚い書類ファイルを一瞥すると、確認のサインをしてそれを閉じた。
「さあ、これで仕事は終わりだ」
まだ陽も高い。開け放たれた窓から執務室へと、心地よい風が吹きぬけ、時折髪を揺らす。
こんなにも早い時間に執務を終えるのが、最近では恒例になっていた。
そして、聖地には数え切れないほどの鳥類が生息しているというのに、鳥の鳴き声を聞いた瞬間に、年少の守護聖の頭上で飛び回る小鳥の姿が浮かんでしまうのも、また、いつものことだ。
さて。
立ち上がると、凝り固まった手足を思い切りよく伸ばしながら、天井を見る。白く、豪華な装飾のある高い天井だ。それから再び、今度はゆっくりと椅子に座りなおす。そんなことをしながら、やがてこの部屋に訪れるだろう愛しい女性を、ここで待つんだ。
そう、俺は彼女を待っている。いつも。
こんなふうに、心地よい風に吹かれながら、その風に彼女の香りが乗って、俺に届くのを待っている。
こうやって彼女を待つ間、よく夢を見る。もちろん彼女の夢だ。
夢の中のアンジェリークは、とても柔らかく微笑んで俺に触れる。いや、それは昨夜の彼女の顔だろうか……それとも今、この夢の中の君か?
触れる?触れた?俺の手に、肩に、それとも?
「こんにちは、オスカー様」
ともかくは、待ち人来る、らしい。
「オスカー様……?あれ?」
俺が黙っているので、眠っているとでも思ったのだろう、数回のノックの後、俺を呼ぶ声がして、その後「あれ?」と言ったきり部屋は再び無音になった。
普段の姿から想像することは難しいが、実は意外と悪戯好きな彼女が俺にそっと忍び寄る気配と、隠しきれないらしい頬の緩み。そして甘い香りだけが部屋に漂う。
その香りだけで誘われていた。
秘密だと言われるとどうしても知りたくなるように、その甘い存在をこの目で確かめたくて
・・・彼女の可愛らしい企みを壊すことは、少しだけ心が痛んだけれど・・・
俺は予定よりも早く目を開いた。
「!」
椅子から立ち、手を伸ばそうと思ったその瞬間に、指先は既に柔らかな体に触れていた。俺は彼女が予想以上に近くまで来ていたことに驚いた。
「お、お嬢ちゃん!」
いつの間に・・・。
「……オスカー様っ!」
だが、驚いたのは彼女も同じらしい。
「オ、オスカー様、起きてらしたんですね」
取ってつけたような言葉は冷静を装ってはいるが、その声は僅かに震えている。
瞳は宙を泳ぎ、何かを言おうとしているのか、唇は「あ」の形に開いたままだ。
……ひどく可愛らしく見えた。
このまま全て食べつくしてしまいたいほどに。
予想外ではあったが、偶然にも触れてしまった指先を伸ばして、彼女の体を絡めとリ、この腕に抱きしめた。引き寄せて頬に触れた髪からは、いつもの香りがする。
「わっ、オ、オスカー様」
「ん?何だ?」
「いきなり、な、なんなんですか」
「お嬢ちゃん、君がこんなに近くにいるのが悪いんだぜ」
「だって…・・・」
「しかも、こんなにいい匂いをさせて俺を誘ってる」
「そんな、知らないです」
我ながら言いがかりも甚だしいが、だがそれは本当だった。
頬にキスをする。目蓋にも、鼻先にも。
「やぁっ……」
「お嬢ちゃん……もっと、君にキスしたい」
「わ、私はそんなんじゃ。そんなつもりで来たんじゃありません」
ふうん、そうか。
じゃあ聞こう。君がちゃんと答えられたら俺はこの腕を離してもいい。
まずは通告だ。
「よく来たなお嬢ちゃん、で、今日は何の用だ?」
候補生が執務室に来た時の俺の決まり文句。
何の用だ?そして、お嬢ちゃん。
だけど、お嬢ちゃん、君をそう呼ぶ時にだけ、呼ぶ度に、俺の心臓に弾丸が打ち込まれることを君は知らないだろう?さあ、君は何をしにここに来た?
「答えられないのか?」
もう一度、頬にキスをする。ほのかに上気した肌はすべらかで指先に吸い付くようだ。
「んっ、きょ、今日は、育……」
「まあ、育成を頼みにくるとは思えないが?」
自分の大陸には、既に炎の力が満ち足りている。
そのことを彼女は十分知っているはずだ。もちろん、それは俺も同じだ。だから、育成などという言い訳はさせやしない。
「えっ、あ……じゃあ」
「じゃあ?」
「じゃあ、お話を……」
お話?そうきたか。いいぜお嬢ちゃん、受けて立とう。
「お話なら、いつもしてるじゃないか?」
柔らかな頬から、首筋にすっと指をすべらせる。
「っ……」
「どうした?今だってこうして話してる。違うか?さあ、今日は何を話す?」
手のひらで胸を包む。
「んっ、こっ、こ、こんな、の……違いま、すっ」
もう、言葉を上手く紡げなくなっている。いつも以上に敏感になっているのは君も同じなんじゃないか?
それでも体をひねって、どうにか俺の腕から抜け出そうともがく彼女が微笑ましい。
少し、手加減してやろうか?
「じゃあ、教えてくれよ、お嬢ちゃん」
少しだけ腕の力を抜いてやる。だけど少しだけだ。
君は、この隙に逃げ出そうとするだろう。
案の定、体を反転させて離れようとした。まだまだ甘いなアンジェリーク。
「おっと危ないぜ」
「やあっ、な、なんでぇ」
俺に背を向けた瞬間に、後ろから引き寄せる。
ぐらついた体を抱きしめると、さっきよりも更に密着させて、君がバランスを取ろうと手を付いた机と、俺の腕とで挟み込むように閉じ込めた。
「や、やだオスカー様。恥ずかしいから、もう……」
「もう?」
「あの、やめてください……」
「よし、じゃあこうしよう」
俺は本当のことを言おう。君を今すぐにでも抱きたいと思っていると。
朝からずっと君のことばかり考えていたと。
昨夜、君を寮の部屋まで送り届け、おやすみのキスをした、その唇のぬくもりを今もなお求めている、俺の腕を掴んだ小さな手の感触がまだ体に残っていると。
全て告白する。だから君も言うんだ。
「さあ、教えてくれ。君はどうして俺の部屋に来た?」
今度は勧告だ。
うなじを愛撫する手を止める気は今は無いが、正直に言えば離してやってもいい。
昨日も、一昨日も、その前も、いつも大目に見てきたが、今日は君も言うんだ、アンジェリーク。さあ、どうして俺のところに来た?
「そ、それは」
そんなに固まるな。まるで苛めているみたいじゃないか。
「別に理由とか、そういうのって……ないっていうか」
「ないのか?」
「あ、だから、その」
君は俺に会いたいとは思わないのか?だから来たんじゃないのか?
「そ、そんなの当然じゃないですか?」
「なら正直に言えばいい。会いたかったって」
「い、言えないです……だって恥ずかしいもん」
「どうして?ここには誰もいないんだぜ。俺と君の二人きりだ。恥ずかしがる必要なんてない」
「あ、ありますっ。あるんですっ」
わかってるさ。君が恥ずかしがることくらい。
「それでも言ってもらいたい、と言ったら?どうだお嬢ちゃん」
頬を染める君は愛らしいからな、アンジェリーク。その反応が俺の所為ならばなおさらに。
「オスカー様……」
「ん、言う気になったか?」
「言ったら、離してくれます?」
「ああ、もちろんだ。最初からそう言ってるだろ?」
「じゃあ、言います」
俺に後ろ向きに抱かれたまま、うつむいていたアンジェリークが不器用そうに体をひねり、顔を上げた。俺はまた少し腕を緩めてやる。
すると、小さな手が動きだし、俺の頭を捕まえる。さらに、その指先を髪の間にすべりこませるように固定して、耳元に、俺の耳元に唇を寄せた。
「オスカー様……わたし、」
そして、小さな声で「会いたくてしかたなかった」と、君は告げた。
全身が熱に侵されてゆく。
脚の力が抜けていくような感覚がして、アンジェリークの体に体重をあずけた。
「やっ、ちゃんと言ったのに。な、何でくっついてくるんですかー」
「そんな目で見られて我慢できると思うか?」
君だって感じているはずだ。ほら、こんなにも熱くなって……触れたところ全てから熱が移ってくるじゃないか?
「嘘吐き、オスカー様の嘘吐きっ」
「なんとでも言えばいい」
「も、やぁ、やめてください」
本当にやめて欲しいか?
その瞳は俺を求めている、違うか?
お嬢ちゃん、アンジェリーク、どうなんだ?本当にやめて欲しいのか?
「ん…・・・」
君の答えがどうだろうと、俺はもう我慢などできやしない。
真っ赤に染まった耳朶を甘噛みするように、最終通牒を言い渡す。
「やめないぜ」
やめる気などない。
君はもう、何も言わなかった。
さっきのように、小さな手を伸ばし、俺の顔を撫で、そして掬い上げるように髪を揺らした。
それから、とても柔らかく笑った。
それは昨夜の彼女の顔だろうか……それとも今の?夢の中の君か?
触れる?触れた?俺の手に、肩に、それとも?
夢を見ていた。
思ったほど時間は経っていない。
風が、髪を揺らした。
執務室の窓は閉めていたはずだが、どこからか隙間風が吹き込んできているのだろうか?
最近、よく夢を見る。もちろん君の夢だ。今も、いつもと同じ夢を見た。
あの頃の……愛とか永遠などという言葉を真剣に信じていた頃の俺と君だ。
今は信じていないのかって?
くだらないことを聞くんじゃない。悪いが、そんな子供じみた質問に答えている時間は俺には無いんだ。
「さあ、これで仕事は終わりだ」
そう仕事は全て終わった。
立ち上がると、凝り固まった手足を思い切り伸ばし、天井を見る。白く、豪華な装飾のある高い天井を。君を待つ間、よく眺めていた白さは今も変わらない。
窓の外はもう暮れている。予想以上に時間がかかってしまったらしい。途中、いねむりをしたのが災いしたのかもしれないが、でも……
「これくらいの遅刻は許してくれるよな?」
俺は窓から空を見上げ、目には見えない星を思った。
その星に向けて、腕を伸ばす。昔、子供の頃によくやったように、指先をピストルの形にして長く長く腕を伸ばした。
「お嬢ちゃん……おっと失礼、陛下」
ああ、君には何度ハートを打たれたっけ?
「まだ残ってるぜ、しっかりとな」
親指で、自分の胸のあたりをこすった。
アンジェリーク……天使か。しかし、ずいぶん乱暴な天使だな。
だが、愛してる、アンジェ……アンジェリーク。
もう二度と、永遠に、君をお嬢ちゃんと呼ぶことはないだろう。
そう、仕事は終わったんだ。君もそろそろ終わる頃だろう?
たまには待つのもいいもんだぜ、アンジェリーク。
だから……覚悟して待ってろよ、俺はこれから…・・・
「アンジェリーク、君は今夜、俺にさらわれるんだ」
狙いは絶対にはずさない。
俺は窓を開けると、指先のピストルで思い切り宙を打ち抜いた。
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