[秘密のバスルーム ・ 4]



 里緒が出て行った後、二人分のカップを流しに置いた。
カップを洗おうかとも思ったが、水道の蛇口を捻った瞬間に、なんだかどうでもよくなってしまった。
 「明日でいいか」
 俺もまた自分の部屋へと食堂を出た。

 里緒と暮らす部屋を選ぶ時、寝室は一つでいいかとも思った。が、里緒は学生で勉強する部屋が必要だろうし、俺は俺で医学書やら何やらである程度のスペースが必要だった。それに持ち帰りの仕事もレポートもある。だから多少の無理は承知で、互いに個室を持てるこのマンションに決めた。
 普段はわざわざあいつの部屋に行くことが面倒だったり、シングルベッドの狭さを煩わしいと感じることも多いが、今日のような日は自分の部屋があってよかったと思う。

 ベッドに横になり、仰向けになって目を閉じながら、目蓋をぎゅっと押さえる。途端にどっと疲れが出たような気がした。
 疲労した神経をチクチクと刺激するのは、やはり里緒のことだった。
 冷静に考えれば、彼女はまだ十代で、いわゆる多感な年頃という時期を生きている。悩みがあったとしてそれが何だというのだろう。人に言いたくないことくらい誰にだってある。そうさ俺にだってあるんだ。しかも女の子なんだから、やはり男の俺にあれこれ詮索されるのは嫌だったのだろう。
 ああ、そうさ、年頃の女の子なんてそんなもんだ・・・わかってるんだ、そんなこと。頭ではわかってるんだ、だけど相手が里緒となると、世間一般の女の子と同じように考えることができなかった。
 だって里緒は・・・俺の恋人・・・

 「あーあ、眠れないっての」
 
 この俺を寝かさないだなんて、さすがにあいつだと思うと、急に可笑しくなって思わず笑ってしまい、それから一つ大きなため息をついた。
 ちょうどその時だ。

 「涼兄、起きてる?」
 ノックの音とともに里緒の遠慮がちな声が聞こえた。
 「起きてるよ。どーぞ」
 別段、考える間もなく俺は里緒を部屋へ迎え入れるべく返事をした。
 そーっとドアを開ける里緒の手には一冊の雑誌。それを大切そうに抱えながら部屋に入ってきた。
 「あ、そのままでいいから。すぐ終わるから」
 ベッドから起き上がろうとした俺に気を使ったのか、そのままでいいと言うと、自分もベッドの端っこにちょこんと腰掛けた。

 「ねえ、涼兄、話聞いてくれる?」
 やっと素直に話す気になったようだ。
 可愛いとこもあるじゃないか。
 「ああ。もちろん。なんでも言ってごらん」
 ただそれだけのことで、心の中に暖かいものが生まれてくる。
 だが、この思いを抱いていられるのは、わずか数秒のことだった。
 「涼兄、私ね、やっぱり病気なのかもしれない」
 「!!」
 病気かもしれないだって?今になって何を言い出すんだ。
 「ちょ、ちょ、ちょっ、な、なんで早く言わなかった?里緒、どこがおかしい?熱は?吐き気とか腹痛は?どうなんだ?ほら言ってみなさい、早く。ほら早く」
 「そういうんじゃないの。っていうか落ち着いてよ。それに病気って言うのは大袈裟だとは思うけど・・・」
 里緒の言葉は、そこで途切れた。
 その声には、ふざけていたり、冗談を言っている様子はなかった。本当にわからないんだろう。困ったような、それでいて悲しそうな顔で里緒はじっと黙りこくってしまった。さっきまでの威勢が良かっただけに、その姿がやけに小さな女の子に見えた。
 俺は里緒が話してくれるのを待つしかない。

 里緒が黙っている間、俺は俺なりに様々なケースを想定していた。その中の一つは、心因性の病気に関してだ。
 思春期の女の子の場合、ちょっとしたことでも思いつめて悩んでしまうことも多い。里緒の場合も同じように体ではなく、その原因は心にあるのかもしれない。その可能性は多分、同年代の友人に比べてもリスクは大きいだろう。
 だって、俺は・・・ついこの間までは里緒の兄として彼女の中に存在していた。そんな男がいきなり本当の兄妹ではない、しかも一人の女性として愛しているだなんて告白してしまったのだから。
 確かにあの時、里緒も自分の思いに応えてくれた。自分もまた同じ気持ちだったと告白してくれた。けれど、だからと言ってそれで全てがクリアになったと考えるのは調子が良すぎたんだ。
 きっと不安も戸惑いも・・・それこそ誰にも言えない思いをたくさん抱えていたことだろう。
 それだけでも里緒が心を病んでしまうのは、容易く想像ができた。それを今、話せというのは酷だったかもしれないな。
 里緒が話してみようと思った時に教えてくれればいいよ・・・そう言おうとした時、里緒から思いもしない言葉が返ってきた。

 「私、エッチに向いてない体だと思う」
 はい・・・?
 「涼兄、聞いてるの?」
 聞いてるかだって?聞こえてるから驚いてるんだろ!
 「あ、ああ、・・・って、ええ?」
 「何度も言わせないでよ」
 「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 なんてことを言い出すんだこの子は・・・いったいどういうことなんだ?
 いや、でも待てよ・・・この前・・・特別おかしいと思ったとこなんて無かったし・・・だってちゃんと・・・でも、こればっかりは本人にしかわからないことだってあるんだろうから・・・あーでも何でそんなこと急に?
 「里緒、悪い、もう一度ちゃんと説明してくれないか?」
 焦る俺にかまわず、里緒は困った顔のまま、持っていた本を差し出した。
 「これ、ここんとこ読んでみて」
 渡された本は、結構な重量感のある女性誌だった。表紙にはある人気女優の名前がでかでかと載っていて、彼女のようになろう!という企画がその雑誌の特集らしい。なれるわけないっつーの。
 その中で里緒が示したページは、白黒でところどころに小さなイラストがあるだけの特集記事だった。
 「ん?なんだ?彼に愛されるカラダになるために?・・・ちゃんと知りたい自分の性?」
 「あー!声に出さなくていいからっ」
 「・・・わかったよ」
 「ここだよ。ここんとこね」

 里緒が指でぐるりと囲んだ記事には、性行為の経験のある女性に向けて書かれている部分だった。各章ごとに短いキャッチコピーがついている。

 ■男の子は感じやすい女の子が大好きです
 ・・・まあ、確かにそうだろう。
 そりゃあ何の反応も返ってこなかったら、いろんな意味で心配になるさ。

 ■女の子の体は全身が性感帯なのです
 ・・・これも確かに。
 そうだよな、里緒だって俺の指先がほんの少し触れただけで震えたりしてるもんな。自分では隠してるつもりなんだろうけど。

 ■自分でも試してみましょう!
 ・・・え!

 思わず里緒の顔と雑誌とを見比べてしまった。
 記事の内容はそのキャッチコピーに要約されているとおり、自分の手で全身に触れ、そのどこがどういうふうに感じ、どう体が変化してゆくのか試してみましょうとある。それを知っていてこそ大人の女性なのだと、感じることを恥ずかしがってはいけません。あなたがより感じやすい女性になることで彼もきっと喜んでくれるでしょうとも書いてあった。
 少し頭の中を整理する必要がありそうだ。
 里緒はこの記事を読んだ。そして今、自分がエッチには向いてないだなどと言い出している、しかもそのことで悩んでいるようにすら見える・・・ということは
 「里緒、お前これ・・・やったのか?」
 あいつなりに恥ずかしいのだろう、怒ったような顔をしながら頷いた。
 だけどよくわからない。何故突然そんなことを思ったのか、そしてそれを何故病気かもしれないと思うのか・・・。
 「でも、お前、あれだ、あのー、先週は、そのちゃんと・・・・」
 ちゃんと感じてたじゃないか、とても熱くて、とても柔らかで、そしてとても甘い声をあげて。
 「わ、わかってるよそんなこと。だから悩んでたんじゃないの!」
 「悩んでた?だから何で悩む必要があるんだよ?」
 里緒がチラリと睨む。まるでちゃんと読んだのか、とでも言いたげに。
 「涼兄、エッチの時・・・いろいろ言うでしょう」
 そういえばいつも・・・


 『ねえ里緒、ここすごいことになってる』
 『こっちは喜んでるみたいだね、びくびくしてるよ』
 『キスしただけで腰が動いちゃう?エッチだね里緒』
 

 「上手く言えないけど・・・涼兄も喜んでくれてるのかなって思って」
 大切な言葉を紡ぐようにゆっくりと喋る里緒に、俺も照れたりしてはいけないと思った。
 「ああ、もちろん。嬉しいよ。嬉しいにきまってるじゃないか」
 「だから」
 ほんの僅かながらその声は震えていて、ああ、今度こそ本当に泣き出しそうだ。
 「だから?」
 里緒を真正面に見据えて微笑んだ。彼女の小さな手を、俺の両手で挟むようにして引き寄せ、そしてくちづけた。
 「っ・・・」
 「里緒、続けて。全部、教えて」
 俺の目を見た里緒は、うん、と頷いた。
 「あのね、もっと喜んでもらいたいって思ったの。だから、・・・その本に書いてあること全部やってみたの」
 「それで、どうだった?」
 「ぜんぜん・・・感じなかった。毎日試したのに・・・よく、わからなかった」
 「毎日?」
 「そうだよ。毎日、涼兄がいない時を見計らってさ、お風呂場ならどうせ裸になるし、なのにぜんぜん駄目なの」
 里緒の告白に、正直、面食らってしまった。
 だって風呂場で、しかも毎日?・・・ははっ、大胆というかなんというか、まったくなんて子なんだ、この子は。感じるどころか体を冷えきらせて、そんなことしてただなんて。
 感じなかった?ぜんぜん駄目だった?あたりまえじゃないか。体はそんなに簡単じゃない、まして心はもっと複雑だ。実験のように毎日試したところで、それにどう感じるっていうんだよ。
 俺に喜んでもらいたい。
 その気持ちはものすごく大人なのにな。なのに肝心なことわかってないんだこの子は。
 だけど、嬉しいよ、里緒。とても。
 「なあ、里緒、まじめに聞けよ」
 俺は、できるだけ丁寧に、里緒が安心できるように、医者として、家族として、それから恋人として里緒の体がおかしくないことを説明した。
 途中、何度か反抗的な態度で絡んできた里緒だったが、自分でも思い当たることがあったんだろう、そのうち素直に俺の話を聞くようになった。
 
 「なんだー、じゃあ別に私だけがおかしいわけじゃないんだ」

 ベッドに腰掛けていた里緒が、安心したようにその体を投げ出した。
 俺の横の狭いスペースを上手く使って、伸びをするように両腕を伸ばす。
 「わかっていただけましたでしょうか?お嬢さん」
 「まあねぇー」
 「おい、それだけかぁ」
 片肘で横になっている俺を見上げながら、生意気な返事をする里緒の鼻先をつついてやった。

 「だけどさ、何で俺のこと避けたの?」
 「私、避けたっけ?」
 「おい、忘れてるのか?俺に触らないでって怒鳴ったのはどこの誰だよ」
 「あ」
 「思い出した?傷ついたよなぁ、あれは」
 「・・・・・・」
 短い沈黙の後、里緒はニヤリと笑う俺をひと睨みして、「恥ずかしかっただけだもん」と枕に顔をうずめた。
 
 ぶつぶつと文句を言い続ける里緒を見ながら、さっきまでの神妙な顔を思い出していた。
 その差が大きすぎてなんだか可笑しい。
 声に出したつもりはなかったのに、肩が揺れたのか再び里緒にジロリと睨まれた。

 「何が可笑しいのよ」
 「え、別に何も・・・」
 そうは言ったものの可笑しいものは可笑しい。
 だってそうだろう?風呂場に一人で、しかも素っ裸で悩んでいるだなんて。ものすごく可愛いとも思うけど、それがイコールで可笑しくも思えてしまう。
 それを俺はあんなにも心配していただなんて・・・
 そうだ、俺はあんなにも頭を悩ませてたんだ。そう思うと妙に悔しい気分になる。
 大人気ないかもしれないけど・・・ちょっとだけからかってやろうか?
 クスっ。わざとらしく首をかしげると、俺は鼻先で笑った。
 「何よぉ」
 「いや、里緒が風呂場でそんなことしてるなんてなぁ」
 「馬鹿にしてるんでしょう?もう、だから秘密にしてたのに」
 「ふう〜ん、里緒の秘密のバスルームか。なんだかAVみたいだな」
 「涼兄いやらしい!もう大ッ嫌い」
 いやらしい?まったく失礼な恋人だ。しかも大嫌いだと?そう言えば俺が謝ると思ってるんだろうけど、今日はそうはいかないよ、里緒。
 「里緒、いやらしいっていうのはね・・・」
 うつぶせになっている里緒の体を抱き寄せ、額にかかっている前髪をそっとはらい軽く口づける。じっと見つめる瞳にウインクを返して、今度はきちんと唇に触れる。そこはくちゅっと音を立てて俺を受け入れてくれた。
 しがみついてくる里緒の肩越しに腕をまわし、Tシャツの背中から指先を差し入れ、すっとなぞるとそれだけで里緒の腰がビクっと動いた。
 「んっ…りょ、涼兄…」
 こんなに感じやすいくせに。
 キスだけでこんなに、こんなに紅くなって・・・これのどこが病気なんだよ・・・
 「いやらしいってのは、こういうこと。わかった?」
 「んっ」
 俺は体を離すと、まだ少し息の荒い里緒の髪をゆっくりと撫でた。
 「ねえ里緒」
 「なあに?」
 結局、最後まで『病気』という単語が気になって頭から離れなかった。
 「里緒は何で自分が病気かもしれないだなんて思ったの?」
 「えー、涼兄には言いたくない。プライバシーの侵害!」
 また始まった。まったく強気なお嬢さんだ。
 「だーめ。その手には乗らないの」
 負けられない。俺は里緒に覆いかぶさるようにして真剣な顔を作った。
 「ほら、言いなさい」
 ぐずぐずと文句を言っていたが、覚悟をきめたのか里緒が話し出した。
 「だって・・・涼兄にしか感じないなんて、おかしいんじゃないかって思ったんだもん」
 「えっ」
 一瞬、声が出なかった。
 ・・・俺だけにしか感じない
 なんて見事な殺し文句だ。
 

 「涼兄、どうかした?」
 「いや、どうもしないよ」

 まったく。
 この小さな恋人に、いったいどうやったら勝つことができるんだろう。
 無邪気な顔で、大胆に。いつもいつでも心配と驚きの両方を俺にぶつける。
 これからも俺はきっと、ハラハラしながら君を追いかけてゆくんだろう。

 でもね、里緒。
 君を感じさせる役目は誰にも譲らないよ。もちろん可愛い君のその手にだってね。
 そのことだけはしっかりと教え込んであげるよ、じゃじゃ馬なお嬢さん。

 考え込んでいる俺を、心配そうな瞳が見つめている。
 俺は返事をするかわりに、もう一度ぎゅっと抱きしめた。

 教えてあげる。じっくりと・・・
 その教室は、そうだな・・・君の大好きなバスルームなんてどうだい?















〔秘密のバスルーム〕







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