私はドレスを着ると、次に鏡台の引き出しを開け、それまでほとんど使うことのなかった口紅を探しはじめた。
・・・・・無いっ・・・・・・・・
焦る手で引き出しの中を探ってはみるけど、出てくるのはおよそ自分を彩るものとは無縁のものばかり。
「もうっ!どこにいっちゃったのよっ」
そして三段目の引き出しの奥に、裁縫道具や刺繍の図案などにまぎれて口紅は転がってた。 ようやっと見つけた口紅だったけど、それを手にとってみると、自分の持っている化粧品がこの口紅一本しかないなんて・・・なんだか惨めな気持ちにさえなる。
「でも、しかたないわね。これしか無いんだから・・・」
私はまだ数回しか使ったことのない口紅を、おそるおそる指に掬い取っては唇に彩を移してみる。 レイチェルが、「きっと似合うわよ」って言って、くれた口紅だけど、私には派手みたい。しかも、気持ちばかりが焦って、口紅がはみ出る。それを何度も拭い取っては、また付け直す。 レヴィアスに会うためには時間がないことはわかってはいるけど・・・・それでも口紅だけでも付けたかった。ほんの少しでも綺麗な自分を見せたかった。
身を整えると、私はクローゼットをあけて、自分の持っている中から一番大きな鞄を出した。それは古ぼけた、みすぼらしい鞄だったけど、贅沢は言ってられない。
「セーターに、シャツも少し、あとタオルでしょう?それに怪我した時のために・・・・・」
鞄はすぐにパンパンになって、私は嫌でも旅に出るって気持ちになった。
「さあ、これでよしっと」
右手で鞄を持つと、そのあまりの重さに苦笑する。
「これじゃ、まるで家出じゃないの」
ドアを開け、廊下に出ると、自分の部屋をもう一度眺めた。 なんだかひどく懐かしい。右手に持った鞄が、一段と重さを増したような気がした。
私は一体、何をしようとしているの?
本当にこれでいいの? あんな男のために・・・・私を犯した男のために全てを捨てるつもり?そうよ、やめるなら今だわ・・・・・・・・・そこまで考えて私はハッとした。 私は今の今になっても自分自身を騙そうと、自分に言い訳を作ろうと必死になっている・・・なんて、愚かで・・・弱虫なのだろう。
バカね、アンジェ、まだ自分に嘘を付くつもりなの? あんたの心はレヴィアスに会いたがってるじゃないの。 そんなの自分が一番よくわかってるじゃない。彼と一緒にいたがってるって。 もう一度、彼にアンジェって呼んで欲しいんだって・・・そしてあの優しい眼差しを自分だけに向けてもらいたいくせに・・・・・・・
私は持っていた鞄を部屋の中へと放り投げた。 レヴィアスに会いに行くのに荷物なんていらないって思ったから。 それから、大きな音を立ててドアを閉めると、小さな声でサヨナラを告げ、そして、たぶん・・・・いやきっと、そこに足を踏み入れるのは最後になるはずの礼拝堂へと向かった。
いつものように私は主の前に向かう。でも、私はもう跪かなかった。
主よ、私はあなたに・・・・・もう・・・・二度と許しは請いません・・・・・・・・・
胸に手をやり、ドレスの上から、これまで一度もはずしたことのない十字架をなぞってみる。 指がわずかに震えているのが自分でもわかった。 その指先に力を入れ、十字架を首からそっとはずすと、自分の足の先に静かに置いて、私は、そのまま出て行った・・・・二度と後を振り返らずに。
アンジェリークは目の前に広がる草原を北へと向かい駆け抜ける・・・・空を飛ぶ鳥のように風を切って駆ける。 雑草の生い茂る急斜面をも立ち止まらずに、アンジェの足は駆けてゆく、レヴィアスに向かって。
自分の背丈ほどもある草を掻き分け、その途中で何度も転び、やっとレヴィアスがいるはずの洋館の門の前まで辿り着いた時には、ゴージャスなドレスは無残に裂けていて、せかっく塗った口紅も、ほとんど取れかかっていた。
重たい鉄の門の向こうに朽ち果てそうな洋館が建っているのが小さく見える。
なんて広いんだろう・・・・・・・
全身に力を込めて門を開くと、洋館へと続いている一本道を歩き出した。 長いこと手入れされることも、誰かが足を踏み入れることもなかったんだろう、人一人歩けるくらいのスペースを残して、まるで獣道のように乱雑に草が生えていた。よく見ると、その草の上に、まだ新しそうなタイヤの跡がついていて、私はレヴィアスだと直感した。
「レヴィアス〜!」
私の瞳の中で洋館はだんだんとその姿を大きくしていく。 まだレヴィアスの姿も見えないのに、大きな声で彼の名前を叫びながら私は走り出した。その時、鳥の声にまじって、車のエンジンの音が風に乗って私の耳に飛び込んできた。
私は知らず知らずのうちに、ますます足を速めていた。そして、向こうからレヴィアスの乗った赤いロードスターが走ってくるのが見えて、やっと会えるんだって思ったら、何故だか急に、私はその場に立ち止まってしまった。
レヴィアスの乗ったロードスターは、もう彼の表情がわかるくらい近くまで来ていて、あたりまえだけど、彼も私に気付いたんだと思う・・・・・・彼の表情が険しくなっていくのが見えたから。
なのに、彼の車はスピードを落とす気配がぜんぜんなくて、通り過ぎてしまうの?って不安になった。けど、私の目の前まで来た時に、ちゃんと彼の足はブレーキを踏んでくれていた。 車は私のすぐ脇に停まって、私は自然と運転席の彼を見下ろすことになる。だけどレヴィアスは真っ直ぐ前を向いたままの視線を動かそうともしない。
何か言わなきゃ・・・
「レヴィアス・・・・・どこへ行くの?」
私の問いかけに驚くでもなく、レヴィアスは眉ひとつ動かさずに、答える。
「お前には関係ないことだ、俺はもうお前を解放すると言ったはずだぜ」
私はその声のあまりの冷たさに一瞬たじろいだ。でも、今、言わなければ私は一生自分に嘘を付き続ける・・・それに・・・・・もう私は何も言えないアンジェリークなんかじゃない。
「関係ないなんて・・・・・レヴィアス・・・・私、あなたを愛してるみたいだわ。それに、私、知ってるの。レイチェルから聞いたの。だから大丈夫なのよ・・・だから」 「だから何だ?」 「だから・・・・・一緒に連れていって欲しいのよ、これからもアンジェって呼んで欲しいの」
私はそこまで一息で言うと、あとは彼の言葉を待った。
レヴィアスの瞳が揺れ、アンジェリークを見据える。
アンジェリーク・・・・ お前を初めて見た時から、お前は俺の女だと思った。そしてお前は俺の想像を遥かに超えるイイ女だったな。 お前を心の底から愛しいと、このまま一緒にいたいと、そう思った、でも俺は愛し方を知らなかったんだ。だから、お前を犯した。お前に俺の身体の記憶を埋め込もうとした。
だけどアンジェ・・・・そんなもん、クソみたいなもんだ。そんな記憶はすぐに消えうせる。 それでもお前は俺を求めてくれるのか?アンジェ? だったら俺は・・・
レヴィアスが再び、視線をアンジェからはずす。しかしその口元には笑みが浮かんでいた。
「しかし、すごい格好だなアンジェ、レディが台無しだぜ」
アンジェリークは初めて自分の姿に気がついた。
「あっ・・・・私、どうすれば・・・・・・着替えなんて無いし・・・・」
真剣に悩む姿が、これ以上ないほど可愛くてレヴィアスは思わず憎まれ口をきく。
「バカがっ、くだらないことを言うな、そんなもんこの先、いくらだって買ってやるさ」
それまで途方に暮れていたアンジェリークの瞳が一瞬にして輝きを取り戻した。
「それって連れてってくれるってことなの?そうなの?でも・・・」
言葉を濁すアンジェにレヴィアスは少しムッとする。
「でも・・なんなんだ?何か問題でもあんのか?嫌なら無理にとは言わねえがな」 「そっ、そんなんじゃないの! でもっ、あの・・・私・・・・お情けだったらいらないの。だから、レヴィアス、ひとつだけ聞かせて・・・あなたは私を・・・・・愛してる?・・・あの・・・・少しでも愛してくれてた?」
レヴィアスは車から降りるとアンジェリークを抱きしめ、自分を見上げる視線に苦笑を返す。何故かわからないが、可笑しくてたまらなかった。愛しくて仕方なかった。
「ったく、そんなこともわからないとはな、本当にバカな女だ。だけど、最高に可愛い女だぜアンジェ、お前は」
レヴィアスがアンジェリークを抱きしめたまま遠い目をして空を見上げる。
「そうだな、このまま突っ立ってても何も降ってきそうもねえし・・・俺だけの天使に賭けてみるか」
そう言って、レヴィアスが視線をアンジェリークの顔に落とすと彼女の頬が瞬時にバラ色に染まった。
「じゃあ、連れて行ってくれるのね!レヴィアス!」 「いや・・・・・、そうじゃねえ」 「えっ?」
アンジェリークの身体がふわりと宙に浮く。 レヴィアスがアンジェリークを抱きしめたまま、彼女を車の助手席へと運んだ。
「生憎だったなアンジェ。俺は、女はさらって行くってことに決めてんだ。さぁ、少し急ぐぞ、」
レヴィアスの足がアクセルを踏み込み、私を優しく包んだその手はギアをトップに入れる。 車のスピードが上がり、私の育った町がどんどん遠ざかってゆくのがバックミラーに映る。そっと彼の横顔を見ると、口元が笑っているのが、嬉しい。きっと私の顔も笑ってるって思う。
私達の行く先は天国か、地獄か・・・・いいえ、次の町へ行けるかどうかすらわからないけどそれでも、私の顔は今、笑ってる、きっと。
レヴィアス、あなたが私をアンジェ、とそう呼んでくれる限り、私はずっと笑っていられるのよ。私はただ、あなたにアンジェと呼ばれるためだけに、ついて来たの。他には何もいらないと思って。 だけど、そこには私の場所があった。私だけの指定席がちゃんとあった。 あなたは、時々振り返って、いつものように口の端を上げて、少しだけ笑ってくれれば、それでいい。
あなたがそうしてくれたら、私は・・・ 私、あなたの女になる。
どこまでも続きそうな道を、一台の車が走り去っていった。 そこに何も残さず、誰に見送られることもなく。ただ小さな笑い声だけを落としながら。
誰もいない礼拝堂にハイヒールの音が響く。
「アンジェリーク・・・・私はあんたの手紙を待っているわよ」
薄暗い礼拝堂の中に、彼女が握り締めたアンジェリークの十字架だけが光を放っていた。
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